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2005.03.14

キリストから精神本体である「人の命」へ

私は、20代前半先輩のキリスト教信者に叱られて「自分は正しい」と思って頑張ってきた自我が崩壊するのを感じました。
またキリスト教の先生から「でも、しかしと言うのをやめ、まず聞け」と言われて、キリスト教を学習しました。

キリスト教はすごいと思い、信じ、聖書を勉強し、キリスト教雑誌にも書き、人々にキリスト教のお話しもして来ました。
こうして約30年の年月を無我夢中で生きて来ました。

しかし50代半ば現実問題に取り組んでいるうちにキリスト教で説明できない、あるいは解決できない問題が数多くあることを自覚せざるをえませんでした。
どうすればいいのかと試行錯誤しているうちに自然にキリスト教が小さくなってしまいました。

一方で、数十億年(?)の歴史をもつ精神本体の重要性を認識するに至り、この精神本体を「人の命」と呼び、重視し、信じるようになりました。
この「人の命」を重視し信じることで再び現実の問題に取り組む元気が湧いてきました。
今この思いで一番私が感謝していることは、宗教をこえ、国をこえ、世界の人々と話し合うことができることです。

私は、人の命を軽視しない限り、いかなる既存宗教、既存思想も否定しません。
反対に既存宗教、既存思想から多くのことを学ぶことができたと感謝しております。
キリスト教を学んだ約30年が無駄であったと思ったことはありません。
きっとこの学習がなかったら「人の命」を重視し信じる思いには到達することができなかったでしょう。

数年前、ある仏教信者が、戦前戦争に反対し、投獄され、獄中毎日祈り、仏とは何かと思い続け、そしてある日「命だ!」と気付いたというお話しを、別の若い仏教信者の方がくれた本で読みました。
真摯(しんし)に現実問題を考え続けていると、やがて「命」とか「人の命」に思いが到達する必然性があるように思えてなりません。

「人の命」は宗教も国もこえることができる人類共通の最高の価値ではないでしょうか。
私は、死ぬまで「人の命」を重視し信じる生き方を世界の人々との交流に生かしたいと思っています。

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