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2005.06.25

信用の有無半々

satuki

クレジットカード利用代金明細書がカード会社から届きましたので早速内容を調べてみました。
幸い不正はありませんでした。

クレジットカードの仕組みは、カード会社、カード利用者、カードによる支払いを受け付ける店(利用店)、情報処理会社など、この仕組みに参加するすべての人や機関の信用の上に成り立っています。

今回のカード番号等の個人情報の大量流出事件は、店とカード会社の間に入って仕事をしていた情報処理会社の情報管理の誤りで個人情報が大量に盗まれたことが原因だったそうです。
つまり情報処理会社に大きな問題があったようです。

このような事件が起こると不安になります。
犯罪組織の技術の高度さを考えると私達も対策を考えざるをえません。

私は、カード専用の指定銀行口座を決め、その残高を低めに押さえています。
すると仮に被害にあっても被害を小さく押さえることができます。
また毎月来る利用代金明細書を見て、不足すると思うと口座に入金せざるをえないので明細書を見る習慣がつきます。

何でもそうですが、クレジットカードの仕組みも信用の有無半々です。

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2005.06.21

世にも不思議な人間

060519maiokakoen
05.6.19横浜市舞岡公園

生物は神がつくったのか、自然にできたのか、今日においても議論が分かれています。
宗教的な人は神がつくったと考えるでしょう。
科学的な人は自然にできたと考えるでしょう。

一番難解な生物は人間です。
人間の行動はあまりにも不自然に見えます。
自我を自然と思う人は少ないでしょう。
技術を自然の産物と考える人は少ないでしょう。

人間はまことに不思議です。
小は素粒子から大は宇宙まで考えます。
技術・システムを開発します。
抽象的なことを考えます。
想像します。

数十年後にはほかの惑星に、数百年後には太陽系外へ宇宙旅行しているかもしれません。

本当に人間は面白いことを考え、実現しようと工夫と努力をします。
人間は自然にそうなったのでしょうか。
それとも神が計画的に人間をそのようにつくったのでしょうか。
本当に人間は神秘的です。

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2005.06.17

神は犠牲を喜ばない

tidoriso
チドリソウ

私は多くの面でキリスト教の祖イエスはすごい人だったと思います。
しかしイエスがわざわざエルサレムに行って、当時の支配者である大祭司連に自分を殺させたことは問題であったと思います。
人殺し(大祭司連)に人殺しの機会を与えたからです。

エルサレムに行かなくても早晩イエスは殺されたでしょう。
どうせ殺されるならエルサレムで殺された方が効果的であるとイエスは考えたでしょう。
逃げ回って隠れて生きるより、自ら出て行って殺される決心をしたのでしょう。
そして殺されることに、人々の罪のあがないという意味を持たせたのでしょう。
それが人々に対する愛、または神が与えた使命と思ったのでしょう。

しかし旧約聖書によると、神は犠牲を喜ばないとあります。
それなのにイエスが人々の罪のあがないとして自分を犠牲にすると考えたこと、またはそれが神の意志と考えたことは神に反していたのではないでしょうか。

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2005.06.13

サボテンの花

s-050613cactus

私が子供のときから静岡県西部の町の家にあり、咲いたのを見たこともないまま40年以上の時がたち、驚いたことに横浜で02年に一つ、04年に一つ咲いたサボテンですが、今朝は何と六つも花をつけました。
横浜が砂漠化している証拠でしょうか(冗談ですよ)。
温暖化の影響はあるかもしれません。

このサボテンは何度も処分しようと思いました。
でも母がわざわざ横浜に持ってきたものですので、母の死後もそのままにしておきました。
02年1月に母が亡くなり、その年6月に初めて咲きましたので、母の霊がサボテンの花となって現れたかと思ったほどでした。
死者の霊を信じない私ですが、そう感じたほど、最初の花を見たとき感動しました。

温暖化は問題ですが、こうして咲くサボテンの花は本当に美しいですね。
大事にしていたのにこの花を見ることなく亡くなった母が不憫です。

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2005.06.10

ドクダミ水

dokudami

子供のときから病弱でしたのでこの季節になると母がよくドクダミを煎じて飲ませてくれました。
いつしかこれが習慣になり、横浜に居を構えてからも庭に自然にドクダミが繁茂しますのでよく飲んでいました。
健康によかったのか全然わかりません。

ある日新聞でドクダミの作用が強くて体を壊すことがあるという記事を読みました。
心配になって飲むのを中止しました。

その後、ドクダミを栽培し、手で収穫している人の手が老人になってもシミがない美しい手のままということをテレビで見ました。
これは事実らしく、その地方の女性達は、ドクダミを入れたお風呂に入るとか、ドクダミ水で顔を洗っているそうです。

5月、6月になると庭では相変わらずドクダミが繁茂します。
取っても取っても毎年大繁茂です。

私も65才になって手の甲などのシミが目立ってきました。
そこで庭のドクダミを取って捨てるのはもったいない気がして、皮膚に塗るぐらいなら危険はないだろうと思って、ドクダミ水をつくってそれで手を洗ったり、手の甲に塗ったりしています。

本当にシミが薄くなったような気がします。
先日長女が訪問してきて、「お父さんの手、シミが出て心配していたけど、きれいになったみたい」などと言ってくれたので、ますますドクダミ水信仰が厚くなり、毎日使っています。

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2005.06.07

ノーネクタイ

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省エネのため環境省がノーネクタイ運動を始めました。
蒸し暑い日本の夏、わざわざ冷房をきかしてネクタイをしめ、仕事をするのは変です。
ノーネクタイが当たり前になることはいいことだと思います。

戦後の男性のビジネススーツであった背広は、画一的でつまらないものでした。
そこで男性はネクタイでおしゃれをしました。
ところが私は、ネクタイがいいと思ったことがありません。
どうしてあんなものを首にしめ、前に垂らしているのか不思議に思っていました。
(注)背広は、civil clothesのcivilがなまって「せびろ」になったのだそうです。

40年以上前のことですが、入社した会社の東京本店で、夏、開襟シャツで出社したところ、エレベータの中で重役につかまり、会社員たるもの、ネクタイをしめるのが礼儀であると説教されて参りました。
講演会では講師がきちんとネクタイをしているのでノーネクタイで聴講することは失礼と注意されました。
一流のホテルのレストランは開襟シャツでは入れませんでした。
格式を重んじた時代でした。

地球温暖化問題のおかげでやっとノーネクタイ運動が起こりました。
新しい男性のビジネススーツが誕生するきっかけになるといいと思います。

ついでですが、私が入社した当時、本店の女性は制服がありませんでした。
それはもう女性が美しく見えました。
女性の服飾は自由でいいとうらやましく思ったものです。

ところが、確かオイルショックの後だったと思いますが、会社の業績が低下し、新事業も失敗続きだったとき、本店が女性の制服を決めました。
給料が低いのに服飾が自由だと出費がかさむと女性が文句を言ったと聞きました。
会社が無料で支給した制服ですから、大きさ、体形に応じた形の種類に制限があり、女性美が損なわれ、男性はもちろんこと、女性の中からも失望の声があがりました。
男性の仕事の能率が落ち、またデートが減ったのではないでしょうか。

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2005.06.04

現代には現代の生き方

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仏教、キリスト教、イスラム教の宗教者、信者の生き方は、無宗教で生きている人と教祖の中間の生き方ではないでしょうか。
彼らの宗教知識が現代の知識によって希釈されているからだと思います。
古い教典の教えを守っている人はほとんどいないと思います。

希釈された現状を心配し、できるだけ教祖の教えに帰ろうという動きがあります。
気持ちは理解できますが、無理だと思います。
あえて実行すれば生きることがむずかしくなると思います。

現実に生きている私達は、現実を説明できる教えを持たないと現実の中で生きることができません。
教祖は教祖、私は私と考えて、最終的には自分なりの生き方を考えるのがよい生き方と思います。
実際、ほとんどの宗教者、信者がそうしていると思います。
私達の生き方は私達が想像する教祖の生き方からはほど遠いのではないでしょうか。

それは決して悪いことではないと思います。
教祖の生きた環境とは大きく変わった現代そして日本で、教祖の教えに従がって生きることはむずかしいと思います。

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2005.06.02

神に関する誤解は問題

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アルペンブルー

神の形はこうですとか、神はこの建物に住んでいますと言われると、急に神がつまらないものに思えます。
そしてそういう人が嘘っぽく思えます。

私が感じる神は、形なく、人間がつくった建物に住んでいません。
私と不即不離(切り離すことができない状態)で私を助けています。

非常に興味深いことは、私達が神を知らなくても、神以外のものを神と思って祈っても神は私達を助けることです。

その結果、神に関する私達の知識は深まらず、いい加減なままだと思います。
そのいい加減さが人生に悪影響を及ぼさないかというと及ぼすと思います。

神に関する誤解はどうしても私達の変な行動の原因になります。
周りの人にも悪影響を与え、周りの人まで変な行動をするようになります。

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