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2005.07.29

一人でいるのが向いている

hana1

人間には組織の長に向いている人と、長の下で働くのが向いている人と、どちらにも向いていず、一人でいるのが向いている人がいます。

私はたまたまある会社の技術開発管理部門で、ある分野を一人で担当する仕事についてしまったため35過ぎまで一人で仕事をしました。
もちろん上司はいましたが、上司は仕事を私に任せましたので、私は自由に仕事をすることができました。
したがって私は一人でいるのが向いていると思いました。

35を過ぎますと、新事業を企画実行する仕事を命令されました。
一人で企画して新事業を始めました。
少しずつメンバーを増やして組織化しました。
知らない間に組織の長になっていました。
したがって私は組織の長にも向いていると思いました。

そのうちに別の組織から呼ばれて別の組織の長に協力するような仕事も増えてきました。
すると長の下で働くことにも向いていると思いました。

そうこうしているうちにある時社長室に呼ばれて、社長から、お前は私に全然相談しない、自分勝手に仕事をやっている、私はお前にとって何なんだとものすごい声で怒鳴られました。
私は、ただ「もちろん社長です」と言いました。
すると社長が、「それならいい」と言いました。

私の方は、それならよくなかったので(社長に従がう気がなかったので)まもなく辞表を提出し、後任に引継ぎを行なって退職しました。
そのときつくづく自分は長に向いていない、長の下で働くのに向いていないと思いました。

その後、今日まで過去の経験知識を生かして個人業の形で会社から相談を受け、その会社の事業や仕事に協力する仕事をやってきました。
自分が独立しているのが楽しくて、個人業が嫌だと思ったことは一度もありません。
やはり私は一人でいるのが向いていると思います。

このような性格なので、人を上にするとか(人の下になるとか)、人の上になって、人を下にするなどという考えは嫌いです。
私は私であるという考えが好きです。

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2005.07.23

神を信じても神はわからない

yuri4

既存宗教の言葉を使って神について語るのは、その人が、既存宗教を学んで、神を信じたことを示しています。
そして神について知らないから既存宗教の言葉を使って神について語るのだと思います。

もしその人が本当に神を知っており、神と話し合いをしているなら、既存宗教の言葉など使う必要はありません。
自分の言葉で神について説明できます。

神を信じても神については知らないというのが事実ではないでしょうか。
神が存在するかどうかも知らないのが事実ではないでしょうか。

わからないことはわからないと言った方が虚偽がないと思います。

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2005.07.20

宗教は誰が教えてくれるのか

hana1

信者は、宗教者のお話しを聞いたり、教典を読んだりして宗教を学んだのではないでしょうか。
それなのに信者が神が教えてくれると言ったり、そう思い込んでいるのは不可解です。

もし本当に神が教えてくれるなら宗教者も教典も宗教施設も無用と思いますがいかがでしょうか。
現実は神は何も教えてくれないのではないでしょうか。
神の存在すら疑問です。

宗教とは、人類が学び、考え、蓄積してきた知識の一つと思いますがいかがでしょうか。

人間が神聖な霊気を感じるということはわかります。
しかしそこまでです。
霊気を感じてもその霊気から教えを受けることはないのではないでしょうか。

宗教を考え、信じたのは人間だと思います。
別に神は宗教を人間に教えていないと思います。

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2005.07.16

自我が善悪半々である理由

isehanabi
イセハナビ

通常私達は神仏が善で自我が悪と考えます。
しかし私はそう思いません。
実は、神仏は実在するものではなく、自我の善を天などに投影したものと考えます。
すなわち神仏とは人間が知恵として蓄えた善知識を神仏として想像したものと考えます。

したがって自我とは善悪半々と言えると思います。
すなわちいかなる聖人も善悪半々です。
ただし聖人は善を優先的に使う力を持っています。
通常、善のみ使います。

どうして自我が善悪半々になるかについてはそうなっているとしか言いようがありません。
私は生き残りのためと考えています。
具体的に言いますと、人間が生きる環境は不変ではありません。
現在の環境が反対の環境になることがありえます。

現在の環境で生きやすい方法を善と考えてみてください。
もし環境が反対になったら現在の善で人間は生きることができるでしょうか。

君子は豹変すという易経の言葉があります。
君子は過ちに気付けばすぐ改め、行いを正しくするという意味です。
もうちょっと幅を持たせますと、知恵ある者は環境に応じて考えを大幅に変えるということになります。

絶対善を信じる人は、善が善でなくなるなんてとんでもないと考えるでしょう。
幸い善が善でなくなるような環境の激変はめったにありません。
しかし小さな確率と思いますが、ありえると思います。

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2005.07.13

一人一宗教

ogahasu
鎌倉 光明寺庭園の池 大賀蓮が混じっていると言われています。

アメリカのプレジデントブッシュがキリスト教信者というのは、普通のキリスト教信者にとって望ましいことなのでしょうか。
望ましくないことなのでしょうか。

私は普通のキリスト教信者の気持ちがわかっていないのかもしれません。
しかしブッシュ氏は普通のキリスト教信者にとっては迷惑なのではないかと思っています。

キリスト教に限らず、ほかの宗教でもそうですが、宗教の教えと、政治分野で指導的な立場にある信者の思想がどうも一致しないので宗教信者とはいったい何者なのかと思うことがあります。

熱心な宗教信者の中にも宗教と自分の信仰は関係ないとはっきりと言い切る人がいて驚きます。
それなら自分の宗教は何々教と言わなければいいと思うのですが、関係ないと言いながら、私の宗教は何々教と言うその心理は不可解です。
ある宗教を勉強して現在の自分の信仰に到達すると、自分が勉強した宗教を自分の宗教と言う傾向があるのかもしれません。
もしこれが事実とすると宗教は混乱するのではないでしょうか。

実際、既存宗教は混乱していると思います。
この現実を説明するのに、私は、一人一宗教であると言っています。

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2005.07.10

死者の霊

050710

死者の霊を信じるか信じないかで人の行動は大きく異なります。
信じる人は、葬式、墓、寺・神社・教会の参拝や礼拝を重視する傾向があります。
信じない人は、反対に軽視する傾向があります。
信じる人、信じない人は半々ぐらいではないでしょうか。

信じる人でも、本当に死者の霊を感じる人はどれぐらいでしょうか。
意外に感じる人は少ないのではないかと思います。
信じない人は、死者の霊を感じないことを重視しているのでしょう。

私も死者の霊を感じませんので信じていません。
夢の中で現れた程度では死者の霊が存在するとは言えません。

すでに両親は亡くなりましたが、記憶している両親を大切にしています。
いやな思い出もありますが、概して私はよい思い出を大切にする方です。
両親を思い出して話しかけることもあります。
思い出した時、その場所で話しかけます。

ときどき死者の霊や死者の記憶に苦しむ人のお話しを聞きます。
自分が悪いことをしたと思うなら悔い改めた方がいいと思います。
悔い改めない限り、苦しみが続くでしょう。

死者の霊を信じている人は信じていてもいいと思います。
但し、死者の霊はこの世のすべての悪や不自由から解放されて平安な状態にあると思った方がいいと思います。
また、死者の霊を信じない人を否定してはいけないと思います。
信じない生き方もあるからです。

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2005.07.05

宗教とは

ときどき原始仏教は宗教なのか哲学なのかと考えることはないでしょうか。
原始仏教は、苦悩の原因を捨てることによって苦悩から脱却することを特徴としていると思います。

私は、子供のときから阿弥陀仏のような仏を信じるのが仏教と教わったり、イエス・キリストを信じるのがキリスト教と教わってきましたので、若い頃は信じる人格的なものがない原始仏教は宗教ではない、哲学であると思いました。

いったい宗教とは何でしょうか。
宗教と哲学の違いは何でしょうか。

最近は、宗教とは安心のため信じるもの、哲学とは諸現象の裏にある原理を研究する学問と考えています。
つまり宗教では安心が重要であり、信じるものが真理であるかどうかは重要ではない、哲学では別に安心が得られなくても信じるものが真理であることが重要と考えています。

このような定義で原始仏教を見ますと、原始仏教は明らかに宗教です。
阿弥陀仏、神、イエス・キリストなど信仰の対象になる神仏が明確でなくても、一切は空と悟り、執着を捨て、さらに苦悩を捨て、安心を得るというのは明らかに宗教です。

恐らく多くの仏教信者は「一切は空」は真理と主張するでしょう。
しかし哲学者はそうは言わないでしょう。
そう早く割りきらないで、もっと諸現象をよく考えよう、そうすれば未知の真理を知識として獲得できるだろうと言うでしょう。
宗教は知識において主観的かつ保守的ですが、哲学は客観的かつ進歩的です。

それでは哲学の方が宗教より重要かというとそんなことはありません。
人生において安心がいかに重要か理解しない人は一人もいないでしょう。
いかに知識があっても不安な人生は苦しいものです。

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2005.07.01

benkeiso-1

私が育った静岡県西部は、鎌倉仏教のある宗派の寺がいっぱいあります。
どうしてその宗派の寺が多いのか、故郷の歴史を調べてみました。

室町時代ですが天竜川の幽谷を求めて僧が来て寺をつくったそうです。
瞑想にいい環境だったのでしょう。
何とか食料の確保もできたのでしょう。

数人の僧が高徳でこの地方で有名になったそうです。
すると大勢の人々が寺に集まって教えを乞うたそうです。
寺は教育機関であり、研究機関であったのでしょう。
布施は授業料でした。

身近に寺がほしいという人々の要望に応じてこの地方の至るところに同派の寺の建設が進んだようです。
しかし僧と人々が交流すると僧の信仰が希釈され、世俗化するという問題が生じたそうです。
すると僧が再び幽谷に消えるということもあったそうです。

現代の僧は、葬式業に精を出していると批判されています。
宗教のためではなく、かねのため人々と交流していると批判されています。

寺以外の機関における教育、研究がどんどん発達している時代です。
心の問題すら、学校、研究機関、医療機関などが世界の知識を集めて研究しています。
僧は失業の恐れすらあります。
僧の苦悩が伝わってくるような現代です。

恐らくキリスト教の宣教師や牧師も同様の苦悩をかかえているのではないでしょうか。
イスラム教系の国ではまだ宗教者が指導力を持っていますが、やがて僧と同じような苦悩を味わうことになるのでしょう。
長い時間をかけて仏教もキリスト教もイスラム教も、分解され、総合され、新しい宗教誕生の知的材料になるでしょう。
すべてが変化していくという感じがします。

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