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2005.07.01

benkeiso-1

私が育った静岡県西部は、鎌倉仏教のある宗派の寺がいっぱいあります。
どうしてその宗派の寺が多いのか、故郷の歴史を調べてみました。

室町時代ですが天竜川の幽谷を求めて僧が来て寺をつくったそうです。
瞑想にいい環境だったのでしょう。
何とか食料の確保もできたのでしょう。

数人の僧が高徳でこの地方で有名になったそうです。
すると大勢の人々が寺に集まって教えを乞うたそうです。
寺は教育機関であり、研究機関であったのでしょう。
布施は授業料でした。

身近に寺がほしいという人々の要望に応じてこの地方の至るところに同派の寺の建設が進んだようです。
しかし僧と人々が交流すると僧の信仰が希釈され、世俗化するという問題が生じたそうです。
すると僧が再び幽谷に消えるということもあったそうです。

現代の僧は、葬式業に精を出していると批判されています。
宗教のためではなく、かねのため人々と交流していると批判されています。

寺以外の機関における教育、研究がどんどん発達している時代です。
心の問題すら、学校、研究機関、医療機関などが世界の知識を集めて研究しています。
僧は失業の恐れすらあります。
僧の苦悩が伝わってくるような現代です。

恐らくキリスト教の宣教師や牧師も同様の苦悩をかかえているのではないでしょうか。
イスラム教系の国ではまだ宗教者が指導力を持っていますが、やがて僧と同じような苦悩を味わうことになるのでしょう。
長い時間をかけて仏教もキリスト教もイスラム教も、分解され、総合され、新しい宗教誕生の知的材料になるでしょう。
すべてが変化していくという感じがします。

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