自我が善悪半々である理由
通常私達は神仏が善で自我が悪と考えます。
しかし私はそう思いません。
実は、神仏は実在するものではなく、自我の善を天などに投影したものと考えます。
すなわち神仏とは人間が知恵として蓄えた善知識を神仏として想像したものと考えます。
したがって自我とは善悪半々と言えると思います。
すなわちいかなる聖人も善悪半々です。
ただし聖人は善を優先的に使う力を持っています。
通常、善のみ使います。
どうして自我が善悪半々になるかについてはそうなっているとしか言いようがありません。
私は生き残りのためと考えています。
具体的に言いますと、人間が生きる環境は不変ではありません。
現在の環境が反対の環境になることがありえます。
現在の環境で生きやすい方法を善と考えてみてください。
もし環境が反対になったら現在の善で人間は生きることができるでしょうか。
君子は豹変すという易経の言葉があります。
君子は過ちに気付けばすぐ改め、行いを正しくするという意味です。
もうちょっと幅を持たせますと、知恵ある者は環境に応じて考えを大幅に変えるということになります。
絶対善を信じる人は、善が善でなくなるなんてとんでもないと考えるでしょう。
幸い善が善でなくなるような環境の激変はめったにありません。
しかし小さな確率と思いますが、ありえると思います。
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