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2005.12.30

知的設計論

知的設計論という言葉は日本では耳慣れない言葉です。
アメリカのキリスト教保守派が中心になって唱えている論で、知的存在が知的意図をもって生物を発生させ、進化させたと主張しています。

アメリカではすでに1968年連邦最高裁判決で、公立学校で、旧約聖書創世記に書かれているような創造説の教育をすることを禁じています。
しかし、知的設計論を公教育に導入したいとする動きが各地で起こり、ブッシュ大統領も賛成しているとのことです。

生物の構造や働きが複雑かつ精巧なことに誰でも驚嘆します。
知的存在が存在して知的意図をもってつくったと思いたい気持ちはよくわかります。
生物については科学で説明できない部分がありますから知的存在を信じ、その業と思いたい気持ちもよくわかります。

しかし、知的設計論は、科学的証明がない知的存在を仮定し、さらに科学的証明がない知的意図を仮定しないと成り立たない論です。
真実らしさがない仮設の段階というべきで、公教育に導入するのは危険です。

アメリカペンシルベニア州ハリスバーグ連邦地裁ジョン・ジョーンズ判事が、05.12.20、知的設計論は、科学でなく宗教的見解であり、憲法の政教分離に違反するとして、同州ドーバー地域の公立学校で教えることを禁じる判決を下したのは至極当然のことです。

ところでブッシュ氏も宗教的ですが、小泉総理も宗教的です。
科学が発達したアメリカと日本で宗教的な国の長が同時に誕生したことは興味深いことです。
両国には何か不安があり、宗教に頼りたい雰囲気があるのでしょう。

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2005.12.28

時が来たらなるようになる?

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那覇の識名園の御殿に至る道 両側の石垣が昔の面影を残しているように思います。琉球王家の別邸でしたが、太平洋戦争で破壊されました。御殿等復元され、世界遺産になっています。 

今は経済が順調で、景気はいいと思うのですが、何か心が重い感じがします。
私が悲観的になっているからかもしれません。

12月24日に閣議決定された06年度一般会計予算の政府案によると06年度末で国債発行残高は542兆円に達するとのことです。
昔国債発行残高が100兆円を越えたとき私は政府に不安を感じました。
その5倍の500兆円になったと聞くと、よく政府は倒産しないものだと驚きもし、感心もします。

いったい誰が政府にお金を貸しているのでしょうか。
ほとんどの国民は政府にお金を貸していると思っていないと思います。
預貯金していると思っています。
しかし預貯金などの金融資産が金融機関を通して国債購入に当てられていますから実は国民が政府に貸しているようなものです。

金融機関は預貯金者に対して責任をもって貸付を行なっているでしょうか。
政府に対して貸付が甘すぎるのではないでしょうか。

ところで国民の金融資産の多くは老人が持っていると言われています。
今後老人の割合が増え、年金支給額が減り、老人が預貯金をおろすことが加速するでしょう。
すると金融機関は何をするでしょうか。
日本銀行は何をするでしょうか。

政府の動きを観察するとそれほど節約しているとは思いません。
国会も節約を求めているとは思いません。
06年度は新規国債を30兆円も発行するそうです。
05年度より減ると政府は得意げに言いますが、30兆円はものすごい金額です。

国民が政府の借金を棒引きにしてあげるなんてありえません。
計画的インフレなどというお話しがありますが、日本銀行や政府にそれを実行できる能力があるか私にはわかりません。
時が来たらなるようになるということでしょうか。

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2005.12.26

人命を軽視すると生活できない

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横浜の舞岡公園 沼地に木が生えていますが、今は沼地が干上がっています。

危険な建物の建設に関係してしまった元一級建築士が、「仕事がなくなると生活できない」と思ったと言いました。

改めて失業の恐怖はすごいと思いました。
失業すると、生活できないという恐怖に直結しやすいことがわかります。

罪を犯した元一級建築士は、仕事が減る不安をばねにして新しい顧客を開拓すればよかったのですが、自分の営業能力に自信を失っていたのでしょうか。
反社会的な顧客との関係だけで仕事を続けることを考えてしまったようです。

「仕事がなくなると生活できない」ではなく、「人命を軽視すると生活できない」という単純な知識を持っていたら頑張って新しい顧客を開拓したかもしれせん。
人命に関する価値観がいい加減であったことが致命的であったと思います。

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2005.12.24

クリスマスイブ

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沖縄本島平和記念公園にて

キリスト教とは無関係に日本ではクリスマスイブがお祭りとして定着し、多くの人々がケーキ、ディナー、カード、プレゼント、ツリーを楽しんでいます。
最近は街や家の庭の電飾も一般化しました。

お祭りは、世界中誰でも、子供も親も、若者も大人も、そして関連産業も喜びます。
今日は土曜日ですから家でクリスマスイブを楽しむ人が多いでしょう。

私の家は、子供が全員独立していますので、ちょっとクリスマスイブの行事から遠ざかりました。
キリスト教会が集いに来いと誘ってくれますが、信者ではないので気が引けます。

イエスが12月に生まれかどうかは学問的には証明できません。
確かな資料がないからです。
イエスの誕生を祝う気持ちと、これから日が長くなる冬至を祝うヨーロッパのお祭りが組み合わさってクリスマスが成立したのでしょう。
事実はともあれ今夜はイエスについて静かに考えて過ごしたいと思います。

今私がイエスについて持っている問題意識は、神は犠牲を喜ばないとあるのに、どうしてイエスは自分を犠牲にすることを考えたのかということです。
またどうしてキリスト教会は、イエスは十字架にかかって人々の罪をあがなったという考えを肯定したのかということです。

罪をあがなわれたはずの人々が、さらにはキリスト教信者までが、どうして人を殺し、また戦争するのでしょうか。

個人の罪からの解放は、イエスの十字架とは関係なく、個人の悔い改め、回心、新生の問題ではないでしょうか。
十字架にかかったイエスのことを思って悔い改める人もいるでしょう。
イエスのことを思わなくても回心する人もいるでしょう。
人が新生するきっかけは様々です。

キリスト教信者もそうでない人も、自我とか心について静かに考えてみるといいと思います。

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2005.12.22

首里城

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沖縄本島の首里城と言いますと、旅行案内には1992年に復元された赤い色の豪華な正殿の写真がのっています。
したがってこの正殿で首里城を想像していたのですが、実際に行って最初に驚嘆したのは城壁城門でした。

そこでここではちょっと趣をかえて、北側一番外側の城壁の写真をのせます。
石灰岩から切り出した、浸食で穴の多い、それほど大きくない石を見事に積み上げて、しかも何とも言えない曲線を描き出しています。
本州の城壁には見られない芸術性です。

太平洋戦争沖縄戦で首里城は建物はもちろん城壁も下部を残してほとんど崩れてしまったと聞きました。
したがって現在私達が見る美しい城壁は復元されたものです。
当然現代技術で補強はしたと思いますが、残存した下部の石組みの工法をよく学んで復元したようです。

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2005.12.20

伝統美と自然美

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沖縄本島北端辺戸岬(へどみさき)

初めて沖縄本島に行きました。
予想とは違うことばかりで感動しました。
島の南端から北端まで約100kmの、小さいと言えば小さい、大きいといえば大きい、サンゴ礁が隆起してできた島です。

土地を開発しようと思うと石灰岩があり、それを除去するのに大昔から人々は大変苦労してきたと思います。
石灰岩の土留め、石垣、敷石、階段などが残っていますが、大地から除去した石をうまく利用したのでしょう。
この石積みと赤瓦の屋根は独特の風情を作り出しました。

ぐすく(城)と呼ばれる城跡を見ると戦争について考えてしまい嫌ですが、石灰岩を積み上げてできた城壁は技術的にも芸術的にも非常にすぐれたものです。

島の北端辺戸(へど)岬にも行ってきました。
非常に高く隆起したサンゴ礁が荒波や風雨に浸食され、目もくらむ絶壁になっています。
その上の台地は石灰岩大地特有のいわゆるカルスト地形になっています。
絶景です。

この背後にそびえる辺戸岳はやはり石灰岩が風雨で浸食されており、奇岩奇勝の地形となっており、辺戸御嶽(へどうたき)と呼ばれ、霊地になっています。

うたきといえば本島南部の知念(ちねん)の斎場御嶽(せいふぁーうたき)が有名です。
ここはそれほど山深くありませんが、複雑に浸食された岩にはさまれた道を「奥に入っていく」という構造になっており、途中や奥まった所にちょっとした空間があり、霊が満ち満ちた雰囲気を作り出しています。
本州にはない草木が生い茂り、木の根っこは岩にへばりついて上から下に垂れ、絡み合い、絡み合った部分が一体になっていたりして一段と神秘性をかもし出しています。

本島南部はさとうきび畑が広がっているのを想像していましたが、違っていました。
人々は何で生活しているのかと不思議に思うほど建物が農地を蚕食していると思いました。

伝統美や自然美を守りながら産業を育成するのが沖縄の人々の課題と思いました。

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2005.12.15

一神教は絶対か

既存の一神教では神の言葉と人間の言葉という概念があります。
そこで一神教の教典に書かれている神の言葉を検討してみると、別に人間の言葉としても問題ない言葉が神の言葉として書かれています。

一神教で一番重要な考えは神は一人であるという考えだと思います。
一神教の教典には神がそう言ったと書いてあります。
ということは預言者がそう聞いたということでしょう。

預言者が、神から聞いたことは事実であったと思います。
なぜなら神を信じる人が神の言葉を聞くことはよく起こります。
神は天に存在すると信じる人は天の方から聞きます。
山に存在すると信じる人は山の方から聞きます。
神殿の奥に存在すると信じる人は神殿の奥の方から聞きます。
心の奥に存在すると信じる人は心の奥の方から聞きます。

しかし預言者が聞いたとしても普通の人には聞こえなかったでしょう。
したがって客観的に言えば神から聞いたという出来事は預言者の心の中で起こったことと考えられます。

いろいろな考えを分類すると、生きるのに有益な考えと有害な考えに分けることができます。
人々が宗教的である場合、生きるのに有益な考えを人々に説得するには、預言者が神から聞いたとか、神の考えであるとした方が説得力があります。
預言者は神を信じていますから、何の抵抗もなく、神から聞いたとか、神の考えであると思い込むでしょう。

ところで一神教が人々が生きるのに有益か有害かはむずかしい問題です。

一神教信者の中には人を殺したり、戦争する人が大勢います。
このような現実を見ると一神教は有害に見えます。

それでは一神教以外の宗教を信じている人はどうでしょうか。
やはり人を殺したり、戦争する人が大勢います。
一神教以外の宗教も有害に見えます。

とすると一神教か一神教以外の宗教かは、どうも人間が生きるのにそれほど重要ではないという結論が得られます。

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2005.12.13

仏教

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舞岡公園の散歩道(横浜)

仏教とは通常ガウタマ・シッダールタ(シャカ)の教えと言われています。
しかし仏(ブツ)とは悟りを開いた者(ブッダ)と考えると教典が無数になり、仏教の教えはさまざまになります。
初めて仏教を学ぶ人はどの教典を学べばいいかわからなくて困ります。

仏教を勉強した現代人が現代感覚で仏教を説く場合があります。
わかりにくい昔からの仏教用語を避けたり、仏教用語を使ってもその厳密な意味を気にしないで使ったりします。
教典主義の仏教者は、この種の仏教に対し否定的です。

しかし私などは哲学的な原始仏教と、その後に成立した信仰的な仏教の違いの大きさに驚きを感じたものです。
シャカの教えが長い間に変わってきたことを思うと、現代感覚の仏教は仏教ではないと否定できないでしょう。

ある人が仏教を語る場合、誰が語っても、それは恐らくシャカの教え、あるいは後の有名な仏教者の教えとは異なる、その人の教えになっていると思います。

悩みからの解放を目的とした教えと言えば簡単に聞こえますが、具体的な教えとなるといろいろあって仏教はわかりにくいという印象を与えています。

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2005.12.11

宗教も実は人間の考え

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神道あり、仏教あり、キリスト教あり、新興宗教ありと、無数の宗教があります。
いったいどの宗教が真実なのでしょうか。
どうして宗教は分散するのでしょうか。

この分散傾向は絶対と呼べる宗教がないことを証明していると思います。
信者は自分が信じる宗教が絶対と思いたいと思いますが、どうもそうではないようです。
これから誕生する宗教も絶対ではないでしょう。

そこで現代では政教分離が政治に取り入れられ、信教の自由が認められました。
言動の有罪無罪については法律が宗教より優先します。
宗教が認めている言動でも法律が禁じているならその言動は有罪となります。
イスラムの国でも政教分離の方向です。

宗教が、人間が考えた法律より下というのは何を意味しているでしょうか。
宗教も実は人間が考えたものではないでしょうか。
教祖が神仏から聞いたとか、霊感を得たと主張しても、その出来事は教祖の心の中で起こったことではないでしょうか。

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2005.12.09

絶交する、しない

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舞岡公園(横浜) 緑多き公園です。山の上の鉄塔がちょっと残念です。

昔あるキリスト教団体に所属していました。
師は非常に実行力のある人で、弟子を引きずり上げるような指導力を発揮しました。
しかし師は、弟子と意見が合わないと、すぐ絶交すると言いました。
師の態度は、みぎひだりの判断がはっきりしていて小気味がいいと思っていました。

やがて私は師とよく話し合うような立場になりました。
そしてある日とうとう意見がぶつかってしまいました。
すると師は例のごとく絶交すると言いました。
私も師のやり方に慣れてしまっていたので、「わかりました」と言って、きれいさっぱり団体を去りました。

団体を去ってからも私は師のやり方を踏襲していて、意見が合わないとすぐ人と絶交する傾向を持っていました。

そのうちにこのやり方がどうも不毛であることに気付いてきました。

私が言っていることは本当に正しいだろうか。
自分が信じている宗教は絶対だろうか。
意見が合わないぐらいで一々絶交していて問題解決になるのだろうか。

師は自分の信仰を絶対とし、思考停止に陥り、弟子との意見交換を拒絶していたのではないか。
私も師と同じ思考停止に陥ったのではないか。

あるとき、絶交すると言って、私の人生に非常に大きな影響を与えた先輩を失ってしまいました。
私はとうとう限界に来てしまいました。
自我とともに信仰まで崩れてしまいました。

そしてその後、何か狭い空間からやっと外に出ることができたような解放感とか自由を感じました。
すぐ絶交すると言ってしまう習慣はすっかり消えました。

この自我の変化のおかげで今は大いに国際交流を楽しむことができるようになりました。
思想に違いがあっても、絶交せず、かと言って妥協もせず、その違いを乗り越えて話し合いを続けることができるようになりました。

人(の自我または思考)は千差万別、同じであることを求めたら人間関係は一つも成立しません。

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2005.12.07

罪と罰は対

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箱根小涌谷

私は仏罰とか神罰を信じていません。
しかし小さい時からよく馬鹿をやっては叱られたり、怪我をしたり、長く寝込んだりしましたので、母からよく言われた天罰覿面(てきめん)という言葉が頭から離れません。

それでも懲りないもので大きくなってからも馬鹿をやってしまったことが何度もあります。
やはり私は許容範囲が狭くてすぐ罰を受けました。

このような経験から罪と罰は対という思いを深くしています。
生きている間に罰を受けない人がいるという人がいますが、間違っていると思います。

罪はばれなければ罰されないと思うのは甘いと思います。
逮捕されなければ罰されないと思うのも現実を知らなさすぎます。
罪を犯しても戦争や裁判に勝てば罰されないと思うのも考えが浅いと思います。

罪はまず心から自由を奪います。
すると何事においても言動が不自由になります。
人や社会から罰されなくても自分で自分を罰するという現象が生じます。
その上、早晩、人や社会からも罰されることが多いと思います。

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2005.12.05

明日も生きる

今を生きよとか、今日を生きよという教えがあります。
明日のことはわからないから今日一生懸命生きよと教えているのでしょう。
昨日は今日につながり、今日は明日につながるから今日を生きることは明日も生きることになると教えているのでしょう。

でもちょっと消極的です。
自我に未来を考える機能があることを軽視していると思います。

今の生き方がいいか悪いかどうやって判断すればいいでしょうか。
誰でも犯罪とわかる犯罪で人生を棒に振る人は跡を絶ちません。
よりよい生き方を追求せず、今日も昨日と同じように生きている人は無数です。
今日を生きよと教えている先生ですら過去の慣習に生きている人が多いと思います。

未来のことを考えないからではないでしょうか。
予測しないからではないでしょうか。

予測に批判的な人は予測しても当らないと言います。
これでは今日行なう計画、準備、予習などに力が入らないでしょう。

明日も生きる。
この考え方の方が積極的で健全です。
明日があると思えば今日行なう計画、準備、予習などが楽しくなるでしょう。

仮に明日死ぬとしても明日に希望をもって生きた方が明るいと思います。
いつ死んでも、死ぬまで明るく生き生きと生きた方が、死ぬとき、生きてよかったと思うと思います。

でも、未来と言っても、死後も生きるというのは未来すぎます。
誰も死後のことなど知りません。
知らない人の言うことなど信じて死後の生活を夢見るのは空想的すぎます。

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2005.12.03

複数の自我

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私の中に複数の自我があって、時と場合によって働く自我が異なることをときどき感じます。
私の中で異なる自我が話し合うこともあります。
このような感覚をお持ちの方は多いでしょう。

この複数の自我の存在は、情況に応じて自我が変わることを意味しており、自我の弾力性と言えます。

しかし何かあると否定的消極的な自我に変わりやすい場合は生きにくくなります。
また他人の前で自我がよく変わりますと信用を落とし、やはり生きにくくなります。

現在支配的な自我に苦悩している人は自我を変え、安定させたいと願います。
そこで学問したり、修行したり、信仰を求めたり、精神科医療を受けたりします。

しかし、これらの方法で一見自我が安定したと思えても、他人に批判されたりすると、突然、自我が不安定になることがあります。
また安定してもたとえば冷たい自我では依然として生きにくいでしょう。

つまり健全な自我で安定することが大切であることは明白です。
これが難問です。

現代は健全を堅苦しいと考えたり、価値観の多様性を重視するあまり、健全な自我という問題意識が弱くなっている感じがします。
そして不健全な自我を問題にしながら大切にするという変なことをやっていると思います。
つまり決心しない自我があります。

成功の法則とか超能力を強調した新興宗教が人気がありますが、どうも人間性とか社会性を欠く場合が多いようです。
折も折、政府は昔の道徳や宗教を復活させたいと思っているようですがどうも復古調の度が過ぎます。

私は人の命(Human Life)を重視し、さらには信じることによって健全な自我の形成ができるのではないかと思っています。
そう思って今は生きています。

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2005.12.01

自我は未完成だが必要

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ネリネまたの名はダイヤモンドリリー

よく自我(エゴ)を悪いものと考える人がいます。
しかし自我は必要なものであって、自我が発達したから人類は生きていると思います。

動物的な原始的精神(精神本体)だけでは人類は滅びる確率が高かったと思います。
幸い精神本体上に自我が発達して自我が情報を集めて生きる方法を考えるようになったから人類は飛躍的に滅びる確率を下げたのではないでしょうか。

つまり自我は精神本体のやりすぎを押さえ、その不備を補っていると考えます。
精神本体と自我は対をなしていると思います。
自我の重要な機能は情報を集めて生きる方法を考えることだと思います。

したがって、自我が精神本体と対立しているように見える面があることは決して不自然なことではないと思います。
逆に自我が正常に作動している証拠だと思います。
自我が精神本体に従順すぎたら精神本体の動物性が強調され、人類の滅亡は加速したでしょう。

しかし自我は発達したと言っても未完成で、いろいろな問題点を持っています。
神経系に欠陥がありますと、精神本体からの信号や外からの信号に対し釣合いのとれた情報処理ができない場合があります。
また神経系に異常がなくても、育った環境などが原因で誤った習慣や知識を蓄積すると、普通の環境で自我が正常に作動しなくなる場合があります。
すると精神本体を制御し補充するどころか、暴走する場合があります。

自我の不完全性が実生活の中で結構目立ちますので自我を悪者扱いする人が多いのではないでしょうか。

自動車で言えば精神本体はエンジン、自我は運転手のような役割を分担していると思います。
運転が悪ければ自動車は危険なものになるでしょう。
人生とは精神本体と自我の二人三脚です。

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