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2005.12.09

絶交する、しない

maiokakoenpond
舞岡公園(横浜) 緑多き公園です。山の上の鉄塔がちょっと残念です。

昔あるキリスト教団体に所属していました。
師は非常に実行力のある人で、弟子を引きずり上げるような指導力を発揮しました。
しかし師は、弟子と意見が合わないと、すぐ絶交すると言いました。
師の態度は、みぎひだりの判断がはっきりしていて小気味がいいと思っていました。

やがて私は師とよく話し合うような立場になりました。
そしてある日とうとう意見がぶつかってしまいました。
すると師は例のごとく絶交すると言いました。
私も師のやり方に慣れてしまっていたので、「わかりました」と言って、きれいさっぱり団体を去りました。

団体を去ってからも私は師のやり方を踏襲していて、意見が合わないとすぐ人と絶交する傾向を持っていました。

そのうちにこのやり方がどうも不毛であることに気付いてきました。

私が言っていることは本当に正しいだろうか。
自分が信じている宗教は絶対だろうか。
意見が合わないぐらいで一々絶交していて問題解決になるのだろうか。

師は自分の信仰を絶対とし、思考停止に陥り、弟子との意見交換を拒絶していたのではないか。
私も師と同じ思考停止に陥ったのではないか。

あるとき、絶交すると言って、私の人生に非常に大きな影響を与えた先輩を失ってしまいました。
私はとうとう限界に来てしまいました。
自我とともに信仰まで崩れてしまいました。

そしてその後、何か狭い空間からやっと外に出ることができたような解放感とか自由を感じました。
すぐ絶交すると言ってしまう習慣はすっかり消えました。

この自我の変化のおかげで今は大いに国際交流を楽しむことができるようになりました。
思想に違いがあっても、絶交せず、かと言って妥協もせず、その違いを乗り越えて話し合いを続けることができるようになりました。

人(の自我または思考)は千差万別、同じであることを求めたら人間関係は一つも成立しません。

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