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2006.02.26

社会の目標が悪い方向に変化していないか

kyodonomori

最近の社会の現象を観察しますと社会の目標が変わって来たように思います。
貧乏人を減らすという目標が薄れつつあるように思います。
金持ちが増えているようですが、一方で貧乏人が増えているような感じがします。
そして金持ちは金持ちであることに満足し、貧乏人の増加について無関心のようです。

社会に貧乏人がいてもいいという雰囲気は問題ではないでしょうか。
貧乏人を否定しない訳ですから一見貧乏人に寛大な社会に見えます。
しかし、実は、貧乏人に厳しい社会になりつつあると思います。

強者が、弱者はいてもいいと言い、強者が社会において支配的であったらその社会はどのような社会になるでしょうか。
社会は、体の一部が病気なのにその病気を治そうとしない病人のようになるでしょう。
病人が元気がないように、弱者が多い社会は元気がないでしょう。
現在貧しい国がかかえている問題はこれだと思います。

もちろん弱者は自分で強くなる努力が必要です。
しかし、強者は、悔しかったら強くなれと弱者に言いながら、強くなることをいろいろな方法で妨害していることが多いと思います。

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2006.02.23

歴史のある社寺が住宅群に呑みこまれそう

ikegamibaien

19日(日)娘に彼女が住んでいる東京のある町を案内してもらいました。
狭い宅地の住宅が密集している町で、雑然とし、今は美しくもなく防災上も危険です。
そんな町に比較的大きな社寺が並んでありました。
必死に空間を守っていると感じました。

神社の発祥は11世紀ということで長い歴史がありました。
社務所にお願いして貴重な宝物数点を見せてもらいました。
あらためてこの町の歴史と日本の歴史を考えることができました。

隣の寺は、13世紀、神社の社殿の造営に尽力した領主がいたが、その子が、ある鎌倉仏教に帰依し、僧となり、創建したそうです。
当時は神仏混交の時代だったとのことで、この僧は神社の別当(当時の社寺の事務長)を兼務していたそうです。

この神社と寺は、江戸名所図会(1836)にも掲載されています。
この絵から想像すると昔は豊かな神社の森と広い寺の庭園が神社の本社や寺の本堂とよく調和していたようです。
神社と寺の間に塀がありましたが、真ん中に開いた門があって、自由に往来できたようです。

しかし1945年の空襲で神社の本社も寺の本堂も灰燼と帰したそうです。
これは非常な痛手であったと思います。
信者の層が薄くなってしまったのでしょう。
今は周りから住宅に侵食され、神社に森なく、寺の庭園は箱庭のようです。

歴史のある社寺が住宅群に呑みこまれそうです。
歴史的遺産としても、住宅が密集した町に残された唯一の空間としても貴重な存在です。
地方自治体が歴史的遺産として管理する道はないものかとちょっと思いました。

しかし今は政教分離ですから、空間や森や公園は別に地方自治体と住人が協力してつくらなければならないでしょう。

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2006.02.20

学問する習慣

折角学校に入学してもまじめに学問しないで遊んでしまい、十分な知識を持たないで社会人になる人が増えています。
仕事や事業は昔に比べるとむずかしくなる方向ですから、学校で遊んでしまうと、仕事や事業はむずかしいとか、できないとか、嫌だという気持ちになりやすいと思います。
すると就職に苦労したり、職場を転々と変えたり、いつまでも親から独立できなかったりする恐れがあります。
心機一転学問すればいいのですが、学問しない習慣がついていますと学問しない恐れが大きいと思います。

どうすれば学校でちゃんと学問するようになるでしょうか。
幼児の時遊びの中に学問的遊びを入れるようにし、学問する習慣を持たせる工夫をするといいのではないでしょうか。

学問と、お話しを聞くことと本を読むことは密接な関係がありますから、幼児の時から親が絵本、児童文学などを読んで聞かせることは非常に有効だと思います。
この方法で子供はお話しを聞くことと本を読むことを学びます。
学問の基本的習慣が身につくのではないでしょうか。
親は大変と思っても毎日ちょっと時間を割いて本を読んであげるとやがて子供は本を楽しむようになると思います。
そして本の内容を基にして夢を描くようになります。

クレヨンなど筆記用具と紙をいつも用意しておき、親が描きますと、子供は描く楽しみを覚え、やがて書くようになります。
紙は裏が白ければ何でもいいでしょう。
幼児は大きい紙がいいでしょう。
古くなったカレンダーは役に立ちます。

夢を実現するために学問すると思うと学問が楽しくなるかもしれません。
私は非常に貧乏な家庭に育ちましたので、貧乏から脱出して豊かになる成功物語を好みました。
子供の頃の成功物語は大体学問の重要性を教えていました。
親も学問が貧乏から脱出する方法といつも私に教えていたように思います。

現代の子供は豊かな家庭に育ちますので豊かになりたいと思わないかもしれません。
しかし何らかの夢を持たない子供は少ないのではないでしょうか。

たとえば子供がサッカーの選手になりたいという夢を持ったら、親はクラブに入れたり、試合を見せるだけでなく、子供向けのサッカーの成功物語やサッカー教本を読んであげたり、読ませたりしてみたらどうでしょうか。
サッカーを通して学問するという習慣を身につけることができるかもしれません。

親が学問している姿を子供に見せることは有効ではないでしょうか。
仕事や事業にも学問が欠かせないことを子供に気付かせることが大切です。
子供に、親は遊んでいるという印象を与えてしまう親が多いのではないでしょうか。
遊んでいるだけで親は仕事や事業ができていると子供に錯覚されたら大変です。

要は子供のとき学問が何とか習慣になっていれば多少先生の教え方が下手でも学校で遊んでしまうということは減るのではないでしょうか。

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2006.02.17

第一自我、第二自我、第三自我、・・・

今朝は同時に存在する複数の自我ではなく、時間軸上に存在する複数の自我について書いてみたいと思います。
なおここでいう自我とは私が感じる自我のことです。
私の自我のことです。

生まれたときの自我については記憶ゼロです。
3才の頃の自我についてもほとんど知りません。

ただし3才のときの記憶と思われれる映像が二つ三つあります。
反復思い出すことによって忘れなかったのだろうと思います。
これらの映像は私が見た、つまり自我が見たものです。

6才ぐらいの自我についてはかなり記憶が残っています。
それ以降のことはよく覚えていて自我がどのような状態であったか説明できます。

幼児期のことは推定にすぎませんが、20代前半まで自我は、学び、考え、行ないながら連続的に成長してきました。
そこでこの自我を第一自我と呼んでいます。

この自我で生きる限界に達し、苦悩し、20代前半で、それまで大切にしてきた自我が一気に崩壊し、新しい自我になったと感じました。
それまでの自分の考えを捨て、キリスト教を信じました。
そして再び学び、考え、行いながら連続的に成長してきました。
これを第二自我と呼んでいます。

50代半ば、キリスト教で生きる限界に達してしまいました。
キリスト教で現実を説明することができず、暗闇に入ってしまい、そしてある日明るさを見、それは「人の命」(Human Life)であるとの確信に達しました。

ここで私がいう「人の命」とは、数千万年、数億年、もしかすると数十億年の時間をかけて、人がウイルスのような状態から発達してきた人の精神本体のことです。
原始的精神、原精神、基本的精神と言ってもいいと思います。
私はこの精神本体上に数百万年かけて自我(ここでいう自我は後天的に形成される自我ではなく機能としての自我です)が発達してきたと考えています。

この確信に達すると約30年も信じてきたキリスト教が一気に崩れてしまいました。
今は「人の命」を重視しています。
そして人生とはこの「人の命」と自我の二人三脚と思っています。
明るく生きることができるだけでなく、現実を説明しやすくなりました。
これを第三自我と呼んでいます。

この第三自我が崩れる時がくるかどうか今はわかりません。
第四自我があるかどうかわかりません。

今は第三自我が再び学び、考え、行ないながら連続的に成長していると思っています。

以上は私の認識ですが、ほかの方々はどうでしょうか。
経験は様々でしょうが、古い自我が崩れ、新しい自我になるという経過を経て自我が変化しているのではないでしょうか。

子供の時から宗教を学んだ人は宗教を信じている状態が第一自我かもしれません。
私のように無宗教時代があって、その後宗教信者になった人は第二自我にあるかもしれません。
その後宗教が変わった人は第三自我にあるかもしれません。

いずれにせよ、自我は生まれてから死ぬまで連続的に変化するのではなく、いつかどこかで方向が180度変わるように変化するような気がします。
このような変化はキリスト教でいう回心という言葉で説明すると一番わかりやすいと思います。

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2006.02.14

宗教性半分、非宗教性半分

宗教を信じていると言う人ほど、宗教を信じていないように見えるときがあります。
宗教を信じていないと言う人ほど、宗教を信じているように見えるときがあります。
これはいったいどういうことでしょうか。

自我は宗教性半分、非宗教性半分ということではないでしょうか。

宗教信者は自分は宗教信者と思っているのですが、はたから見ると別に宗教信者に見えません。

まず言えることは宗教信者が無宗教者と一緒に生活しているからでしょう。
宗教信者だって生活、仕事、事業のこととなると無宗教者と変わりはありません。
科学も学問し、技術開発も行なっています。
いくら宗教の先生が執着するな、生活の心配をするなと教えても、執着し、生活の心配をします。
教えている先生だって執着し、生活の心配をします。

もし宗教信者が無宗教者の生き方を否定するなら宗教信者の社会を特別につくるしかありません。
そのような社会はあることはありますが、一般的ではありません。

親しいお付き合いは宗教信者同士を重視している人が多いかもしれませんが、職場では無宗教者と同じことをしています。
だから職場では誰が宗教信者かわからないことが多いでしょう。

それでは無宗教者はどうでしょうか。
彼らは自分は無宗教者と思っています。
ところが彼らのお話しを聞いてみますと、これといった既存宗教や新興宗教は信じていなくても、意外に宗教性を持っていることに驚きます。

これらのことから考えると、宗教性の本質は、既存宗教や新興宗教のそのまた奥にあるような誰でも持っている共通精神のように思えます。
非宗教性の本質も実は共通精神と思います。

人はみな同じですが、その人が自分は宗教信者と思うと宗教信者、無宗教者と思うと無宗教者になるだけではないでしょうか。

では、どうして自我は宗教性半分、非宗教性半分になるのでしょうか。

世界は自我から見ると自我の外側の世界と内側の世界があります。
自我は外側の世界と内側の世界にはさまれています。

その間にあって自我は両側の世界と調和しなければならなかったし、実際そうしてきました。
そうしないと人は生きることができないからです。

外側の世界は唯物的、非宗教的、内側の世界は唯心的、宗教的です。
つまり外側の世界と内側の世界に対し自我は界面活性剤のような働きをしているのではないでしょうか。
だから自我は誰でも宗教性半分、非宗教性半分になるのだと思います。

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2006.02.12

人口が減少しても日本の未来は明るい

最近のある人口予測によると2050年の日本は9000万人ぐらいだそうです。
私はもっと減ると予測していました。
今約1億3000万人ですからいずれにせよ大幅に減るということでしょう。

食料については輸入すればいいという考えがありますが、恐らく世界は深刻な食料不足になるでしょう。
したがって日本の農業生産力と人口の釣合いを考えることが重要です。
最近のデータはわかりませんが、日本の農業生産力は6000万人分ぐらいという計算があります。
これが正しいとすると人口の減少は望ましいということになります。

しかし一時的に老人の割合が非常に大きくなりますから、この歪みは大きな社会問題を生むでしょう。

政府は、若い人々が自分やその子のために生産する社会を重視するでしょう。
老人を重視しすぎると、若い人々が生産意欲を失う恐れがあるからです。

政府の大借金を誰が負担するかという問題がありますが、今となっては金持ちの老人に期待するしか方法がない感じがします。
彼らはよく稼ぎ、よく貯めたと思います。
大赤字でいまいましい政府と思いますが、若い人々のためという気持ちが大切です。

老人は低コストの静かな生活を求められることになるでしょう。
効率が悪い、怪我や病気をしやすい、会社をよく休み、労働安定性がない、職場の活気がなくなるなどの理由で嫌われ、老人向きの仕事が少ないのが現実ですが、死ぬまで働くという気持ちは大切でしょう。
老人は健康に留意してできるだけ若い人々や病院の世話にならないように工夫努力する必要があります。

なお、税金ですが、政府も国会も消費税の税率を上げることを重視していますが、所得税の累進性を上げるのが正解でしょう。
消費税を上げると若い人々や、弱者が元気が出ず、社会全体が不活性になります。

生産の機械化、老人の生活支援システムの機械化は避けられません。
一段と機械の技術開発に力が入るでしょう。

日本は技術立国という考えは今後も重視されるでしょう。
新エネルギー技術の開発はもっと人材と資金を投入すべきでしょう。

住宅については劣悪な住宅から空き家になり、取り壊しが進むでしょう。
従来のアパートは減るでしょう。
普通のマンションはアパート扱いになるでしょう。
住宅産業は反省して、いい住宅を供給するようになるでしょう。

工業地域、商業地域、住宅地域の整理が進み、空間が増えますから、地方政府は都市計画、町づくりがちょっとやりやすくなるでしょう。

農業地域は拡大するでしょう。
従来の虫食い状態は改善されるでしょう。
虫食いとは、農業地域の中に工場や店や住宅が点在する状態です。
これは期待をこめて書きますが、農業生産がちょっと増え、食料輸入が減るでしょう。

ただし、日本は技術開発に意欲的ですから輸出が順調でしょう。
すると農業生産が減り続け、食料輸入が減らないことは十分考えられます。
しかし世界の食料不足を考えますと本当は日本は農業生産を増やした方がいいと思います。

森林や林におおわれた美しい自然が保全され、人々は自然が美しい日本に誇りを感じるでしょう。

比較的明るく未来を描いた理由は、若い人達が希望をもって頑張ってほしいと思うからです。

なお、在日外国人、帰化した人、その子孫は増えるでしょう。
特に大都市は混合社会になる可能性が大きいでしょう。
時間をかけて混合社会にすることで、外国系の人々の遊離を防ぎ、社会問題の発生を予防する工夫が必要です。
隔離するのではなく、融合することを考えないと不愉快な社会になるでしょう。
今から在日外国人と交流慣れすることは重要ではないでしょうか。

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2006.02.10

社会性

社会性とは、社会生活をするのに必要な人間の性質です。
具体的には親愛の情、仲間意識、共通意識、平等意識、尊重、同情、配慮、謙譲などです。

他人や社会のことを考えず自分のことしか考えないと人間関係悪化とか社会問題を引き起こします。

自分のことしか考えないと、違法をやらないまでも、行動基準が法律だけになりやすく、合法ならいいでしょうと言って自分の言いたいことを言い、やりたいことをやるようになります。
そして周りの人から嫌われます。
すると余計自分のことしか考えなくなり、ぎすぎすした人になります。

世界という大きな社会でも同様のことが観察されます。
地球が小さくなり世界の人々が協力して生きる時代です。
今一度社会性についてよく考えてみるべきです。

もし争いが生じたならばその原因を知ることが第一です。
どちらかに、または双方に社会性がないことが原因であることが多いと思います。

自分の考えがいいと思っても性急に相手に押し付けてはいけません。
もしかすると自分の考えの方が悪いかもしれません。

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2006.02.08

正座と坐禅

昔は正座が行儀作法でしたから、私は子供の頃しょっちゅうつらい思いをしていました。
たとえば食事も正座でしたから本当に参りました。
足または関節の構造に問題があって正座をするとすぐ足が痛くなったからです。

特につらかったのは、悪いことをしてその度に父から長時間叱られたことです。
お説教より、畳の上に長時間正座させられたことが厳しい罰でした。

法事も正座でしたからお坊さんの読経も父のお説教と同じぐらいつらいものでした。

子供の頃は坐禅(座禅)とは正座と思っていました。
坐禅という修行は難行苦行と想像していました。
ですからその修行を終えたお坊さんはすごいと思っていました。

あるときある禅宗の総本山に行きました。
そこで初めて坐禅の形と坐禅用の座布団を知ったとき、何だ、何だ、お坊さんはずいぶんずるをしていると思いました。

この禅寺で坐禅とは難行苦行ではないことを学びました。
そうだったのかと思いましたが、その時はちょっとがっかりしました。
修行とは難行苦行であるという思い込みがあったのでしょう。

私は坐禅の習慣はありませんが、安定した姿勢で瞑想することが好きです。
仰向けに平らに寝る、背を垂直にして胡坐(あぐら)をかく、背を垂直にして椅子に座る(腰掛ける)などの姿勢です。
手足の形、静止、動きは別に気にしません。
ゆっくりと静かに呼吸しながらよく瞑想にふけります。
何か心も体もとてもゆったりとし、落ち着き、すべてが均質になったような感じがします。
大自然の中にいるときは大自然と一体になったような気持ちになります。

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2006.02.06

生き生き生きる

世界では無宗教者と宗教信者は、非常に大雑把ですが、半々ぐらいでしょうか。
無宗教者が増えているというお話しをときどき聞きます。
ヒューマニズムと科学の発達の影響でしょう。

なお無宗教者と言っても、何かが自分を生かしていると感じている人は多いでしょう。
一方、宗教信者でも信仰が小さい人は多いでしょう。

無宗教者も宗教信者もだいたいまじめに生きています。
どっちが特にいいとも悪いとも言えません。
無宗教者は無宗教がいいと思っていますし、宗教信者は宗教がいいと思っています。

私は、長い間宗教がいいと思っていましたが、今は宗教より人の命(Human Life)を重視しています。
人の命を信じていると言っていい状態です。

人の命を軽視するなら無宗教も宗教もいけないと思っています。
いかなる宗教を持とうと、あるいは自分は無宗教と思おうと、人生、生き生き生きることが大切と思っています。
人や自分の命を軽視するような生き方は悪いと思っています。

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2006.02.04

けなげな子供

koala
横浜の金沢動物園 コアラ

娘からSOSが入ってインフルエンザにかかった5才の孫の世話をするため昨日朝車で2時間ほどかけて娘の家に行ってきました。

玄関に入ると孫がマスクをして階段の途中にいました。
私を待っていたのでしょう。
マスクをしていたのは母親から、おじいちゃんにインフルエンザをうつすといけないからマスクをしていなさいと言われたからでしょう。
自分の部屋に戻るように言うと、素直に2階の自分の部屋に帰りました。

9時30分ごろ私が孫の部屋のドアを開けると、「インフルエンザがうつるから部屋に入っちゃ駄目」と言いました。
そして「お昼になったら(母親が用意した)ご飯を食べるから教えて」と言いました。

5才の子供が本当にお昼まで部屋の中で一人で我慢できるかなと思いました。
ところが驚いたことに何事もなく時間がたち11時ごろになりました。
5才ともなると忍耐力があるなあと感心していましたら、突然2階で孫が大きな声を出しました。

急いで2階に上がり、ドアを細めに開けて、「大きな声を出してどうした」と聞くと、また「部屋に入っちゃ駄目」と言いました。
私がちゃんと下にいるか確認したのでしょう。
それから12時まで何とか孫は静かにしていました。

午後になりますと、さすがに一人で静かにしていることができなくなったようで、自分の部屋にある電話機の内線を使って下にいる私に電話をかけてきました。

その時の言い方が傑作でした。
「おじいちゃん、もう帰る?」
帰らないと言うと、しばらく安心して静かにしているのですが、すぐ電話をかけてきて「おじいちゃん、もう帰る?」と聞いてきました。

次第に電話の頻度が上がってきました。
限界だなと思って孫の部屋に行くと、今度は「部屋に入っちゃ駄目」と言いませんでした。

おじいちゃんと一緒にいたいのに、長い間一生懸命母親の指示を守って、部屋で一人頑張った孫を見て、子供はけなげだなと思いました。

ところで私にインフルエンザがうつったかどうかは今朝の時点ではわかりません。
天気は快晴、体調は順調です。

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2006.02.02

「理解できない」

zoo2
横浜の金沢動物園 動物はバーラルといい、ウシ科です。中国のスーチョワン、シェンシーなどの山岳地帯に分布しているそうです。岩から岩へ飛び移り、鹿のように非常に身軽です。

自分の言動に対する批判に対して「理解できない」と言って片付けることがあります。

経験知識が乏しいから理解できないのかもしれません。
現実や事実を知りたくないという気持ちが働いているかもしれません。
または自分は正しいという思いを必死に守っているのかもしれません。

実は理解できるのだが、「理解できる」と言うと、それならなぜそのようなことを言ったりやったりするのかと突っ込まれるので、わざと「理解できない」と言っているのかもしれません。
人はよく自分中心で言ったり行なったりしますから、真実を言えないことがあるでしょう。

いずれにしてもこのような言い方をされていると、批判者は最後は相手を無視するようになってしまいます。

「理解できない」なら理解できるまで待つ心の大きさが必要です。
心が小さいと批判者まで否定してしまうことが多いと思います。 

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