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2006.03.30

死にたいと思ってもその思いを捨て生きるのが人生

Dandelion

いかなる理由があっても自殺は人殺しと同じ罪だと思います。
人の命(Human Life)の軽視の罪です。
日本は自殺が多いと言われていますが、自殺が人殺しと同じ罪であるとの認識が人々にないからだと思います。

日本では死者に鞭打つことはよくないとされています。
だからと言って、自殺の罪が自殺をもって赦された訳ではないと思います。
罪は罪です。
死んでしまった人の罪はその人がいないから問えないだけだと思います。

死んでお詫びする、家族の罪が恥ずかしいから死ぬ、死んで諌める、愛した人を追って死ぬ、生きる自信や望みがないから死ぬなど、どうも日本には死ぬことを考えやすい雰囲気があります。
有名な作家が自殺したりすると、それが何かいいことであったかのような評論が書かれたりします。
生きるという人生の目的意識が弱いと思います。

自殺は、悔い改めるとか、生きる自信や望みをもつようになる機会を自発的に捨てることになります。
自殺者はよくない自我の状態のまま死にます。
自分(自我)が人の命を処分できると思い上がったまま死にます。
思い上がっていますから彼らは自殺が周りの人々や他人に迷惑をかけることを考えません。

死にたいと思うような苦しい状態にあっても、その思いを捨て、生きたいと思って生きるのが人生だと思います。
生きているのに死にたいと思うなんて自分に甘すぎます。

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2006.03.27

思い込み

yukinosita

事実はAはBではないとします。
ところがAはBであると信じるとAはBになります。
AがBになるような思考回路が神経系に形成されるからです。

一度AはBであると信じると、よほどのことがないとAはBではないと気付かなくなります。
AはBであるとすると説明できないような現象が何回続いても疑問を持たないことがあります。
数十年たっても、悪くすると死ぬまでAはBであると思っていることがあります。

このような思い込みが自分に有利に働く場合もあると思います。
しかし不利に働く場合もあります。

非現実ですから実は不利に働くことの方が多いのではないでしょうか。
したがってやはりAはBではないことを知った方がいいと思います。

とは言え、知ることはむずかしいと思います。
精神の機能として備わっている知性を肯定し、その知性を使ってよく考えるしかないでしょう。
しかし信じたことを知性を使ってよく考えることはむずかしいことです。
否応なしに考えさせられるような出来事がないとよく考えることはできないかもしれません。

信じることは大切と思う反面、こわいこととも思います。

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2006.03.24

空(くう)

gardeninspring

空(くう)とは、すべての事物はみな因縁によって生じる仮の姿で不変の実体がないという意味だそうです。
冷静に現象を観察した結果得られた達観と思います。

しかし、自分や他人を観察したとき、生きている人を、仮の姿とか、不変の実体がないと理解するのはちょっと問題ではないでしょうか。
人の命を軽く扱っている感じがするからです。
暖かい心とか愛を欠いている感じがします。

人は、自分を実体として認識し、死ぬまで生き切るのがいいと思います。
医者から明日死ぬと言われても、今は生きていることを実感し、残された1日の命でも生き切るのがいいと思います。

人は単なる物体ではありません。
生きており、精神が働いています。
精神の目的は、人が生きること、人を生かすことだと思います。

精神の表層部と考えられる自我は、決して人生にとって無益なものではありません。
本来人が生きるために存在する重要な機能です。
その自我が、自分を仮の姿とか不変の実体がないと思うことはちょっと弱々しいと思います。

確かに個人の寿命には限界があります。
しかし生物学的に子を残す仕組みがあります。
子には、精神の深層部と考えられる精神本体が伝承され、子を生かします。
こうして人類は精一杯生きてきたし、生きています。

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2006.03.21

あれもこれもできない

magnolia

66年の人生を振り返ってみると、一生の間に到底あれもこれもできないというのが実感です。
私の能力に限界があるからです。

たとえば外国語ですが、中学から英語を勉強してきましたが、いまだに英語が下手で苦労しています。
英語は実質世界語などと言いながら、実は心の中では英語を否定しているのではないかと思うほどです。
このような訳ですから第二外国語にはとても手が出ません。
英語だけで勘弁してほしいという気持ちです。

大昔は学問と言えば宗教か哲学だったでしょう。
ところが中世から近世にかけてどんどん学問が分化し、無数の専門が発生しました。
宗教や哲学は専門の一つになってしまった感がします。

そして一つ一つの専門が広さと深さを持っていますから大変です。
あれもこれもやったら浅い知識しか得られず、何も学問しなかったことに等しいでしょう。

宗教については勉強らしい勉強はキリスト教しかできませんでした。
それでよかったと思っています。

収益目的の仕事や事業も、社会人になって以来、一つのことを概して連続的に続け、その経験知識と構築した人脈やシステムで収益を得てきました。
収益を焦り、短気になって次から次へと仕事や事業を変えていたら、きっと収益は不安定であったと思います。

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2006.03.18

共通点を探そう

bf

個人は平等と言いますが、現実、平等と実感する人は少ないでしょう。
他人を見ればすぐ違いに気付いてしまいます。
個人差があります。
千差万別です。
これをいちいち論じていたら切りがありません。

とすると大事なことは共通点を探すことだと思います。
そしてこの共通点が大事だと思います。
共通点を見つけることができれば平等感を持つことが可能です。
例えばどんなに嫌いな相手も、食べるべきものは食べ、出すべきものは出すと思えば、多少相手のことを冷静に考えることができるかもしれません。

違いを気にしすぎると差別する心が強くなってしまう恐れがあります。
特に注意すべきは、思い上がること、または思い下がることだと思います。
どちらも人間関係を悪化させ、ひいては自分も不安になると思います。

私は人の命(Human Life)を人間の共通点として重視しています。
すべての人は、生きる、または生きているということにおいて共通です。
人の命を重視しますと、個人差はそれほど重要でなくなると思います。
上下意識を小さくすることが可能と思います。

それから人の命の重視を善、軽視を悪と考えると概して善悪の整理が容易になると思います。

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2006.03.15

輪廻(りんね)

wf

衆生(しゅじょう)の霊魂は不滅で、転々と生死をくり返して永久に苦しむ。

何とも暗い考え方です。

死ぬと霊魂も消え、そこで終わり、と思った方が明るいと思います。
現代科学では、個人は死をもって終わると考えますから、現代科学の方が明るい人生がおくれそうです。

ところが現代では輪廻を復活感覚で理解する人が結構多いのではないでしょうか。
生きていてよかった、死にたくない、死んでも生きる、次の人生も幸せという風にです。
真実とは思えませんが、考え方は明るいと思います。

しかしこう考える人がいるかもしれません。
これまでの人生はいいことがなかった、死にたい、しかし次の人生はきっと幸せ。
多少いい感じですが、やはり暗い人生観です。
今どんなに苦しいと思っても、何か幸せと感じる心が重要でしょう。

ところでこれまでに輪廻が証明されたことは一度もありません。
輪廻はうそも方便の一つと考えられます。
最も恐ろしい罰の意味で使われた言葉でしょう。
悟れ、そうでないと転々と生死をくり返して永久に苦しむという意味でしょう。

私が死ぬと、体は無機質な化学物質となり、霊魂は消滅すると思います。
もし何かが残るとすれば家族、友人、知人の心の中に記憶が残るでしょう。
しかし彼らが死んでしまえばその記憶も消えます。
私の記録も残らないでしょう。

しかしこう考えても別に私の人生が暗くなる訳ではありません。
概して私は生き生きと生きている方ではないかと今の生き方に自信を持っている方です。

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2006.03.12

うそはついてもつかれても不安

kinjoume

子供のとき、母が「うそをつくと閻魔様に舌を抜かれる」とよく言っていました。
やがて科学好きになった私は、閻魔様に疑問を持ち、この教えはうそであると思いました。
しかし私はうそをつくと不安に陥る性格になってしまいました。

昔の小学校高学年ではそろばんの授業がありました。
1+2+3+・・・+100はいくらという競争をよくやりました。
当時はそろばん塾に行っている人がいて、私は頑張っても個人的努力だけではどうしても一番になれませんでした。
それがくやしくて、とうとう、55+11+12+・・・+100とやってしまいました。
一番になれました。

ところがその後ものすごい不安に陥り、もう学校へ行きたくないと思いました。
苦しくてたまらず、うそはやめようと思いました。

その後、数多くの経験で、うそをついてもうそをつかれても私は不安に陥ることがわかりました。
つらいことでも真実を言ってもらった方が安心することがわかりました。

最近のお話をしましょう。

61歳のとき、私は、便秘と下血を心配し、病院に行きました。
そして大腸・直腸がんが原因であることを知りました。
内科医は、私を励ますかのように、がんの一歩手前と言いました。
外科医は、はっきりと、がんだ、転移している恐れがある、すぐ手術して除去すると言いました。
私は内科医の言葉に不安を感じ、外科医の言葉にむしろ安心を感じました。

この外科医は、私が退院したとき、肝か肺に転移する確率が高い、その時はその時でできるだけの治療はする、海外旅行に行ったりして人生を楽しむといいと言いました。
死ぬと言われている感じがしましたが、何故か私は動揺しませんでした。
外科医はうそをついていないと思ったからです。
うそを言われた方が私は不安になっていたでしょう。

「うそも方便」と言われますが、私はうそはない方がいいと思っています。
うそを手段とせず目的を達成する方法はないだろうかと考えるようにしています。

なお、真実と思って言い、結果的にうそをついたことになったことは無数でした。
うそをついたときはまだうそと気付いていませんから自信をもって言ったのですが、何かのおりにおかしいと気付いたとき不安に陥ってしまいます。
恥ずかしいし、人々に申し訳ないことをしたと思います。

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2006.03.10

会社の発展には社会性が必要

経済横這いで会社経営がむずかしいだけに社長には悪の誘惑が多いと思います。

昔「お客様は神様です」という言葉が流行しました。
しかし近年は顧客だけでなく社会貢献が重視されるようになりました。
社会性が会社の信用を高めるからです。
しかしそう思っている社長は少ないのではないでしょうか。

従業員をもつ会社の社長ともなると収益責任が非常に重くなります。
従業員にその労働に見合った給料を払えないことが多いと思います。
すると従業員は不満をもち、退社するかもしれません。
従業員が出たり入ったりする会社は、不安定で、倒産の確率が高いでしょう。

収益に苦しんでいる社長は合法なら何でもやるという気持ちになりやすいと思います。
周りから社会性がないと批判されるようなことでもやるようになる恐れがあります。

このような追い詰められた気持ちになると悪の誘惑に弱くなります。
ついには人には言えない不法をやってしまう恐れがあります。

周りから社会性がないと批判されることがあったら、社長はこの批判を重大な警告と受けとめた方がいいと思います。
合法だからいいと言い張っていますと、やがて社会の怒りを買うようなことをやってしまうかもしれません。
現代では社会性は会社発展の必要条件と思います。

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2006.03.07

愛の原型

rf

女性は妊娠するとお腹の中の子を大切にします。
産みの苦しみに耐えて赤ちゃんを産みます。
そして赤ちゃんを大事に育てます。
夫も妻に協力し、やがて父としての自覚が出、しっかりと子を育てます。

水に溺れている人を見ると自分が泳げないことを忘れて思わず助けようとして水に飛び込んでしまう人がいます。
誰かが駅のホームから線路に落ちたのを見ると、友人でも知人でもないのに、とっさにホームから飛び降り、落ちた人を助けようとする人がいます。
迫ってくる電車に引かれて自分が死んでしまうかもしれないのにです。

これらは愛の原型だと思います。
愛の純粋な形だと思います。

この愛は生命尊重の特徴を持っています。
精神の奥深いところにある精神本体の生きる力、生かす力からきていると思います。

私は精神本体を「人の命」(Human Life)と呼んでいます。
人の命から湧き上がってくる生きる力、生かす力が自我の深部に影響を与え、そこに愛という感情を形成するのではないでしょうか。

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2006.03.04

町には暖かい雰囲気が必要

suisen

町に重い障害をかかえた子を持つ50歳ぐらいの母親がいます。
彼女は声が若々しく明るくて、重い障害をかかえた子を持つ母親とは思えません。
生きることに自信を持っているとの印象を受けます。

もう駄目だと思ったことは何度もあったのではないでしょうか。
ボランティア達が協力してくれたとのことですが、決して十分な協力ではなかったと思います。
やはり彼女自身が動かなければ何事も前に進まなかったでしょう。
それをきちんとやってきたから自信がついたのでしょう。

しかし一番嬉しかったのは町で差別を感じなかったことだそうです。
反対に心配してくれる人々の暖かい心を感じ、今後もこの町に住みたいと思っているそうです。

まず自分がしっかりしていなくてはいけないと思いますが、町の暖かい雰囲気が非常に重要であることがわかります。

最近は町のボランティア活動が盛んになっていると感じる時もありますが、一方で、町には自分のことしか考えない人が増えているとも感じます。
特に都市部では人の心の孤立化が進み、町の雰囲気が冷たくなりつつあるのではないかと心配しています。

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2006.03.01

友情

yugawara
湯河原梅園

小学校からの友人がいます。
友人は体が大きい人でした。
私は小さかったので大小変な組合せでした。
いつも一緒に遊んでいました。

中学校の時は騎馬戦で彼が馬、私が騎手で不敗のコンビでした。
スウェーデン牧師の家に英語を勉強に行きましたが、彼と一緒に行きました。
ここでちょっと行動に違いがでてきました。

彼はキリスト教を嫌がって英語の勉強をやめてしまいました。
私は、キリスト教は変わっていると思いましたが、特に嫌いということはありませんでしたので彼よりは英語の勉強を続けました。

私は社会人になってまもなくキリスト教信者になり、彼にもキリスト教を説くようになりました。
彼は反対に心理学の本を送ってきて、キリスト教を否定しました。
それではそれぞれ自由に行こうということになり、友人との情報交換がとだえました。

それから長い年月がたち、50代になり、私がキリスト教の限界を感じ、やがてキリスト教から解放されたので、友人忘れがたく、彼に手紙を書きました。
昔はキリスト教を説きすぎた、赦してほしい、今は心理学も勉強している、自由の身になったからお付き合いしたいと書きました。

すると、彼から、私こそよろしく、私はキリスト教信者である、今は苦悩から解放され、教会活動をやっている、人々にキリスト教を説いていると書いた手紙が届き、キリスト教雑誌が同封されていました。
えっ、と思いました。

驚きながらも、お互いどうして思想が変わってしまったか情報交換し、友人に起こったこと、そして心の変化を知りました。
私は現在の思想を彼に説明しましたが、今度は彼の信仰を尊重しています。
彼も私の思想を尊重しています。
思想は千差万別だからです。
友人(の命)を愛することで十分だからです。

彼は私の体を心配していろいろと健康法を教えてくれます。
私はパソコンのプロではありませんが、彼はパソコンでトラブルと、すぐ私に電話をかけてきます。

友情は、子供のころからなんにも変わらないと思います。
友情は思想の違いでは消えません。

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