自我とは別に精神の奥底で働き、自我を助けている精神こそ神ではないか
これまでの学問経験知識をもとに言うと、宗教教祖を神とする宗教団体は、宗教に世界性永遠性がないと思います。
ガウタマ・シッダールタは自分を神格化することはありませんでしたが、仏教宗派に信仰仏教が登場すると、ガウタマ・シッダールタを神格化し、彼を信仰の対象とする宗派が登場しました。しかし、大きな宗派にはなっていません。仏教の神髄は、すべては変化する。すべてをあるがままに受け入れ、自分勝手な思いを捨てようということになると思います。原始仏教には神信仰はないと思います。
キリスト教は、非常に複雑で、神、イエス・キリスト、聖霊が存在しています。三位一体という言葉で説明していますが、わかりやすく説明できるキリスト教学者はいないでしょう。新約聖書を研究すると、イエスは自分は神ではないと言っています。しかしそのイエスも聖霊は神とは別の聖なる力と感じていたようです。神が人に下す聖霊と思ったようです。天の神は、ユダヤ教(旧約聖書)が教える外なる神でイエスは子供のときから教え込まれてきたと思います。彼は疑問を持つことなく天の神を受け入れていました。天の神に加えて大きな力として聖霊を感じたのは、聖霊は彼が学んだ天の神とは違うと彼が感じたことを示しています。彼は内なる聖霊をより大きな力と思っていたと思います。
外なる神は、現代では疑問を持つ人が多く、キリスト教は、すぐれた教えをもっているにもかかわらず、教勢は減衰中です。
イスラム教は、今日においてもムハンマドは預言者とされ、神格化はされていません。預言がコーランに記録され、現代もイスラム教の経典になっています。したがってキリスト教より世界性永遠性を持っており、発展中です。しかし、神が天の神(外なる神)であること、聖戦が認められていることが、現代知識と調和せず、拡大の限界になると思います。我欲の強い人が自分の価値観を正しいと思い、聖戦に走るという不法が目立っています。戦争多発の原因になっています。
戦後日本で爆発的に信者が増えた創価学会は、法華経を学ぶという軸をもっていたが、法華経がよかったというより、信仰の力、集団の力で貧困から脱出という効果が強調されていたと思います。実際に信者は生き生きとし、できるとの確信をもって事業・仕事に当たり、成功してきたと思います。法華経で集団をまとめるのはむずかしかったようで、巨大集団、壮大な建造物、政治活動、世界平和活動(目立つもの)で信者をまとめる動きが顕著になり、集金熱心な宗派になりました。異様な動きは日蓮正宗富士大石寺乗っ取りでした。日蓮正宗は、日蓮の教えに忠実で、昔は身延山久遠寺の堕落を嘆き、分派し、富士大石寺を立て、日蓮信仰の情熱で迫害に耐え、現代に生き残ってきたと思います。しかし、戦後の政教分離で、日蓮宗の国教化の道をふさがれました。創価学会は富士大石寺に壮大な正本堂を建設するなどして金力で日蓮信仰の情熱をそぎ、創価学会との一体化を進めました。巨大集団への発展を企画したのでしょう。しかし日蓮忠実派は生きており、強烈な抵抗を続け、その抵抗を通して顕正会として抵抗派は発展し、富士大石寺の動揺に怒った創価学会と亀裂が深まり、ついには富士大石寺が創価学会を破門にする事態となり、日蓮正宗はその純粋性を維持することになりました。
しかし日蓮正宗は、法華経重視より、日蓮重視です。日蓮信仰と言っていいと思います。世界性永遠性がないと思います。一方、創価学会は、巨大集団形成に大失敗し、信者に無力感が出てしまい、近年は、政治活動も限界が目立ち、元気がないように思います。
日本では神道が大昔からあり、現代も仏教と同じぐらいの信者数を誇っています。仏教、キリスト教、イスラム教と異なり、生き方、考え方に関する教えの蓄積はできていないのですが、原始神道には自然に対する畏敬の念が生きており、自然保全の精神として現代に生きていると思います。山、森、海など万物に精霊が存し、人に働きかけているという信仰は、人の精霊が人に働きかけるという信仰になり、キリスト教の聖霊信仰と重なってきます。原始神道や未開民族に見られる精霊信仰(animism)は決して古臭いものではなく、人の感性の自然な作動であると思います。
人の精霊とは、人が人になる前、気が遠くなるような年月をかけ、形成された原始的精神と思います。自我未発達の状態で人を生かしてきた精神です。この原始的精神は現代も自我とは別に精神の奥深いところで働き続けています。原始的精神は自我を助けています。自我と原始的精神が協働すると、大きな力が出るのだと思います。これが信仰の力だと思います。これに自我の知識、知恵が加わって、人は生き生きと生きることができるのだと思います。
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