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2023.01.22

曹洞宗の社会改善

戦争に明け暮れる鎌倉時代、仏教の神髄を求めて宋に行き、帰ってきて座禅を基本とする個人の悟りを重視した道元は京都ですぐ信用をえて、次第に弟子になる人が増えました。僧兵を持つ比叡山から攻撃され、武士の支持者、越前の地頭波多野義重 の支援で越前に逃げ、そこで永平寺を建立し、集団を育てました。武士の支援や人々の布施もあったが、生活は問題があり、食料生産などはしなければならなかったようです。

この生活改善の工夫努力の経験知識が、曹洞宗を全国に広めるのに役立ちました。

私の故郷は曹洞宗の寺が目立って多くありました。どちらが先に動いたかわかりませんが、中世以降の農民は曹洞宗の僧とよく相談し、僧の指導の下、協力して水田開発整備を行い、生産性を改善してきました。私が子供の頃は広大な水田が広がる見事な農業地帯でした。初期曹洞宗集団の自給自足の経験知識が活かされたことは間違いないと思います。都会の僧ではなく、地方の僧の経験知識が活きています。

道元は晩年鎌倉の執権北条時頼を訪問しています。呼ばれたということになっていますが、行ったのではないかと私は思っています。都落ちは実は彼にとって予想外の出来事ではなかったかと思ったからです。都に戻りたいとの思いがあったのではないでしょうか。

北条時頼は、地方豪族の一人であり、源家のような政治的権威はありません。そこで、対立する他豪族を戦で滅ぼすこともしたが、治安のため、また豪族や農民の信用を勝ち得るために禅宗普及に力を入れました。蘭渓道隆を宋から招き、建長寺を建立しました。苦悩が多かった彼は、道元についても禅宗一派ということで会ってみたいと思ったかもしれません。しかし道元は鎌倉にとどまることなく永平寺に戻り、旅の疲れが出たのかまもなく亡くなってしまいました。鎌倉は臨済宗が力があり、新宗の曹洞宗が入りこむ余地はなかったのではないでしょうか。政治権力に執着する北条時頼は、道元の只管打座、心身脱落のような徹底した悟りには同調できなかったのではないでしょうか。旅の途中、禅宗系寺に立ち寄るなどして多くの人と会い、支持者を増やしたのではないでしょうか。鎌倉訪問は関東に曹洞宗を広めたとの説があります。

現代の曹洞宗がどのような活動を行っているか知りません。政教分離で、活動範囲は狭いでしょう。福井県の永平寺については、昔訪問したとき、「禅寺といえども金ぴか永平寺」と記帳しました。鶴見の総持寺については経営が大変で責任者はお金の心配ばかりしているとのお話があります。まじめな学僧は、座禅のかたわら、あの難解な正法眼蔵(95巻)の読解に苦しんでいるのではないでしょうか。

私の故郷の友人が正法眼蔵を読解して毎月彼の月刊誌に載せています。読むのですが、彼の読解がまた難解で、一読では理解できません。何読しても難解です。なお、正法眼蔵のほかに正法眼蔵随聞記(6巻)(弟子のえじょうが道元の言葉を筆録したもの)が有名ですが、これは理解しやすい書物です。

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