イエスの弟子達はユダヤ人であったが、ローマ世界にキリスト教を伝道した
現代ユダヤ人はユダヤ民族あるいはユダヤの国にこだわり、世界人意識がありません。ところが2000年前、イエスの弟子達は、民族あるいは国にこだわらず、当時世界と言っていいローマ世界でキリスト教を伝道しました。
ガリラヤ湖で漁師などをしていた地方人のユダヤ人が数年イエスと行動を共にしている間に民族や国をこえ、世界人になったことは不思議です。イエスの教えは、民族主義も国家主義もなく、神の教えだけだったが、この教えに、弟子達は、息苦しい地方の生活とはまったく異なる自由を感じたのではないでしょうか。過去の小さな生き方とはまったく異なる大きな生き方を感じたのではないでしょうか。
弟子達は、貧しい生活から解放されることを望んだが、イエスは、罪から解放されることを教えました。政治を批判するのではなく、国の権力者達の不法を問題にしました。ユダヤ民族の間で蓄積された律法は、民族法をこえ、人間法、あるいは世界法に昇華されていました。ユダヤ民族が神に叩かれる原因は、高度な律法を持ちえたのに、いつまでも民族主義、国家主義に執着して神に逆らっていることにあると思います。
民族主義、国家主義をこえる世界観は、世界平和の必要条件と思います。外国人も人と認識しています。キリスト教伝道者は、死を恐れず、国を出て、未開の地にキリスト教を伝道したが、その勇気は神、聖霊、キリストを信じる信仰から来たと思います。すべての人はイエスが十字架で殺されたことで救われたという喜びをすべての人に伝える使命があると伝道者は思ったと思います。
キリスト教の中で、聖霊信仰、生き生きと生きる力、人を生かす愛、罪からの解放(自然に世界に通用する法を守っている)などは現代も通用します。永遠性があると思います。
武器弾薬を使った戦争あるいは防衛で世界平和が実現する訳がありません。軍事力均衡による不戦が平和なんて虚偽です。不安危険です。武器弾薬を使って戦争する国・人を恐れず、生き、人を生かす信念と愛の生き方の方が安心安全です。
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