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2024.03.02

書道の応用の機会が減っている

私(今84歳)の父は、子供の時から筆を使っていたようです。西洋のペンとインクはあったのですが、当時は書きづらかったようです。尋常小学校をでていましたので学校で習字を習ったのでしょう。筆が立ったので余計筆を使うことが好きになり、筆達者になったと思います。父の末弟は学校の先生になり、また書家となりました。父は弟が学校の先生であるより、書家であることを自慢していました。書道が好きだったからでしょう。

私が小学校に入ると、父は毎年1月2日、1日をさき、兄と私に書初めをやらせました。筆を持つ私の手にそっと手をそえ、筆運びを教えてくれました。おかげで私は小学校1年から書道は優でした。兄は私よりはるかに上手で、大人になっても私は兄をこえることができませんでした。

私が中学校1年のとき、中学校は第二回全国学生書道競技大会に中3の兄と私の書を出展してくれました。兄は銀賞、私は銅賞でした。

高校には書道の授業はなかったが、書道部がありました。しかし、私は化学が非常に好きになり、化学部に入ったので習字をやることはなくなってしまいました。大学でも書道はやりませんでした。

会社に入ると、私は字が上手ということで香典などを筆で書くことを頼まれていました。当時はそれほどうまくないと思っていたし、筆に自信もなかったので頼まれるのが嫌だったが、みんなが上手だと言うので書いていました。

会社とは関係なく、キリスト教の先生を中心とする聖書研究会を毎月1回、貸し会議室を借りて開いていましたが、その世話役をやらされ、会議室の入り口に看板を筆で書きました。毎回新しい看板をつくったのでこれは習字になりました。この仕事で初めて筆に自信を持つことができました。年賀状の宛名も万年筆ではなく、筆で書くようになりました。書道は書き慣れることがだいじと悟りました。

私は父の教えを基本にし、自分なりに、心の中でうんすーと言いながら、筆を運ぶ方法をとっています。字体のお手本は、1965年、文海堂発行、鈴木香雨書、「五體千字文」です。その中の楷書、行書、草書を自習しました。鈴木先生の字体は最高と思っています。

最近、認知症に関する町の講演会の看板を筆で書くことを頼まれ、書いたところ、書家として町で有名な人が講演会に来ていて、この人が、看板に感心したようで誰が書いたか事務局に聞いたそうです。温か味がある素晴らしい字だとの感想を事務局に言ったそうです。実はこの書家は私が町の作品展を担当したとき看板書きをお願いしてきた人です。私より年輩であり、有名な書家でしたから、町の作品展はこの方に書いてもらうのが当然と思いました。その書家が感心してくれたと聞き、一段と自信を深めました。

しかし、私は書家ではありません。書道を応用しているだけです。現代は看板のようなものはパソコンでつくることが多くなっています。実は町の作品展もパソコンでつくった看板が用いられていました。折角日本には書道が生きているのに書道を活かさないのはまずいと思って私が方針を変えました。パソコン方式を始めた方が、怒って私に電話をしてきました。パソコンでつくった看板も立派な作品だ、新規性があると主張しました。ごもっとも思ったので、併設で我慢してもらうことにしました。併設方式が7年ほど続きましたが、昨年はパソコン方式だけだったようです。最近、筆で書いてきた人が、遠慮したのでしょう。町の作品展担当者が、筆で書く新しい人を探すのが面倒と思ったのではないでしょうか。

上記の認知症の講演会では看板が筆で書かれているのを見て、多くの参加者が、パソコンでつくった看板より、筆で書かれた看板の方が味があると言ったそうです。書道を実用に応用する考えは重要なことだと思います。

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