2009.07.04

私は苦悩している

人間関係を捨てて理想を大切にするか、理想を捨てて人間関係を大切にするか苦悩しています。
理想を捨てたら私はきっと死ぬまで暗い顔をして生きるでしょう。
二度と人に理想を言えないでしょう。

しかし「私の頼みを聞いてくれないなら絶交だ、これから一生あなたを憎む」という人をみると、その頼みが理想に反していると思っても私は心が揺らぎます。

理想を追求するということは本当にむずかしいことです。
勇気がいることです。

理想を捨てないと思ってもまた不安になります。

どうか私に理想を捨てない勇気をお与え下さい。

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2009.05.25

自殺は犯罪

090525

自分の命も他人の命も人の命です。
その命を絶つことは不法です。
したがって自殺は犯罪です。

5月23日、ノムヒョン韓国前大統領が自殺したというニュースが流れました。
韓国の多くの人々が、政府や警察の圧力で彼は自殺に追い込まれたと言います。
批判が暴動になることを恐れた韓国政府は彼を国民葬にふすことにしました。

しかし、彼が無実であったにせよ、警察の捜査が厳しすぎたにせよ、自殺したのは問題であったと思います。
彼は向上心強く理想を持っている人でしたが、人の命に関する信念は弱かったと思います。
真の法律家は人の命を大切にします。
自殺はしません。

仮に有罪となっても、それが冤罪であっても生きてほしかったと思います。
今生きているということは、人の命が自分を生かそうとしているからです。

不完全な自我があれこれ考えて人の命の働きに反して自殺を選ぶことは不法です。
警察が問題にした彼の犯罪より、自殺の方がはるかに罪が重いと思います。

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2009.05.20

人の命は連綿たり

090520
今年も私の庭のサボテンが咲き始めました。鉢に植えたままで水も肥料もやらないのにどうしてこんなに成長し花をつけるのか不思議です。サボテンの命に感動します。

家族と友人から誕生と死亡のニュースが交互に入ってきました。
一人の人生を考えれば人の命ははかないとなりますが、人類の歴史を考えれば人の命は連綿と続いています。

人類がウイルスのような状態であった時から考えると、人類には数千万年、数億年、あるいは数十億年の歴史があります。
人類は気が遠くなるような時間を生き続けてきました。
このことを思えば人の命ははかないものではありません。

これまでに人類滅亡の危機は何度もあったと思います。
その危機を乗り越えて生き続けることで人の命は非常に大きな力を獲得したと思います。

人類は無限に生き続けると断言できませんが、この人の命が作動しているかぎり、そんなに簡単に滅びることはないと思います。

しかし、滅亡は、人の命の力だけに頼っていれば避けられるというものではありません。

自我はなぜ思考するかと考えてみるべきです。
人類においては数百万年前から自我が発達し、生きることを積極的に考えるようになりました。
自我が発達したから人類は生き残っていると言えます。

しかし自我は未熟です。
思考や知識が不足しています。
やる必要がない、あるいはやってはならない戦争や生活環境の破壊などを、自分の利益や組織の利益や国益のためにやっています。
このような行動が他人だけでなく、実は自分まで生きにくくするということを自覚していません。

自分のことだけ考えるのではなく、他人も含めて人のことを考えることの重要性を自覚すべきだと思います。
人の命に協力して、自我が、人が生きること、人を生かすことを考えるようになると人類不滅の可能性が高まります。

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2009.04.14

専門馬鹿

090414
横浜 舞岡公園 山桜の花が終わり、新緑が匂わんばかりです。

専門分野だけで生きている人のことを専門馬鹿と言います。
視野が狭くて、社会性がなく、価値観が異常だからです。

たとえば防衛産業で技術者として生きているとしましょう。
戦争で敵に負けない、敵に勝つということだけ考えます。
世の中、一番大切なものは人の命であるとは考えません。
何の疑問も持たず技術開発に専念します。

昔、大学の技術系の先輩の中に、ある会社に就職することが内定し、就職前に会社で実習した人がいました。
帰って来ると、彼は、「大砲の開発が私の仕事らしい。こんな会社に就職することはできない」と言って、就職が迫っていましたが、急遽、就職活動をやりなおし、防衛産業とは関係ない会社に就職しました。
自分が開発した大砲が多くの人を殺傷し、ものを破壊することを恐れたのでしょう。

専門馬鹿になってしまいますと自分の専門が人の命にどのような害を加えるかと考えなくなる場合がありますので要注意です。

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2009.02.18

複数の自我の潜在的自我への統一と潜在的自我の顕在化

090218

通常自分の中には複数の自我が存在します。
よくある型は、成長とともに形成される慣習的自我と、それとは異なる潜在的自我を持っている型です。
なお、潜在的自我が作動していると自覚し、つまり潜在的自我が顕在化し、知性で言動を抑制している自我は、慣習に比較的順応している場合でも慣習的自我ではありません。

私は慣習的自我が確立しなかった方です。
20代のことですが、慣習的自我が行き詰まってしまい破壊されてしまって潜在的自我が作動するようになってしまいました。
以来、キリスト教を30年ぐらい熱心に勉強しましたが、結局キリスト教は私にとって教養でしかありませんでした。
もし私がキリスト教に疑問を抱かない信者になっていたらキリスト教的慣習的自我が確立したことになります。

こういうとキリスト教信者の方々は、キリスト教における「新生」をぼうとくしていると私を批判するでしょう。
しかし私は新生とは、キリスト教信者であることではなく、慣習的自我が破壊され、潜在的自我が顕在化して作動し、その自我が知性で制御されている状態ではないかと思っています。

慣習的自我が主で潜在的自我が別に存在する状態では、何かがきっかけで潜在的自我が作動することがあります。
もし潜在的自我が知性で制御されていない場合、その人は非社会的言動を示します。

したがって、複数の自我が作動していると思われる場合、できるだけ早く慣習的自我を捨て、潜在的自我を顕在化させ、この自我が生きる方法を学ぶというのが望ましい生き方ではないかと思います。

潜在的自我は、精神本体である、人類発生以来気が遠くなるような時間をかけて発達してきた人の命(Human Life)に隣接して存在する自我で、人の命との交流を自由に行える位置にある自我と思います。

複数存在する自我の潜在的自我への統一と潜在的自我の顕在化が、概して裏表のない人生を可能にすると思います。

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2009.02.03

人生を改善しよう

090203

現代は技術システムが発達し、一見知性的に見えますが、人の命を軽視するほど欲望がむき出しになっていると思います。
つまり技術システムが欲望を達成する手段として利用されています。
今回の金融危機は明らかに金銭欲を達成するために金融システムが利用された結果です。

欲望は本能的なもので否定することはできませんが、むき出しになりますと、人の命を軽視する結果になります。
数百万年前から人類では思考の主体である自我が発達し、本能を知性、さらには理性で制御することで死ぬ恐れを減らす方法を改善してきました。
しかし、第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして現在進行中の戦争などを観察すると、現代でも欲望がむき出しになり、人の命が軽視されていることがよくわかります。

人類は欲望を制御できず滅亡すると予言する人が大勢います。

しかし私は絶望していません。
人類は改善の途中にあると思います。
人類は馬鹿をやりながら人生を改善していくと思います。

もし自我が発達しなかったら栽培という技術革新を行うことなく、大昔、人類は食料不足、さらには食料争奪戦で滅亡していたと思います。
現代の組織培養技術などは、いろいろな問題を残していますが、食料生産において栽培に続く技術革新になると思います。

本来欲望は生きるために必要な本能でした。
その欲望が暴走すると死ぬ恐れが高まります。
そこで自我が発達し、生きる方法に関する経験知識を積み、欲望の暴走を防ぎ、死ぬ恐れを減らしてきたと知るべきです。

私は、気が遠くなるような大昔から人類を生かしてきた本能的な精神本体を人の命(Human Life)と呼んでいます。
人の命に生きる力、生かす力を感じるからです。
そして人生とは人の命と自我の二人三脚と思っています。

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2008.11.28

絶望、希望、欲望

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人の一生においても社会の動きにおいても絶望、希望、欲望が波のように繰り返していることが観察されます。
激しい怒りを感じて殺人を行うなどは絶望的行動です。
投機に夢中になりバブルを膨張させるなどは欲望的行動です。

欲望の後には絶望が来やすいと思います。
そして絶望の後には希望が来やすいと思います。

しかし絶望のとき忍耐を欠き、短気になると希望の代わりに破滅が来やすいと思います。
絶望、希望、欲望が波のように繰り返すということを知っていれば、絶望のときはその時が過ぎるのを忍耐をもって待つことができるかもしれません。

絶望、欲望の波を静め、希望をもって生きることができたら概して明るい人生を送ることができると思います。

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2008.11.24

家族親類縁者を大切にしよう

081124

日本社会はよくなってきたと思います。
自分は差別されていると感じることが次第に減ってきました。
個人が一人でこの社会で生きていくことができると思える社会になってきました。

しかしこれが今大きな問題を生んでいると思います。
好調なときはいいのですが、不調になると孤独を痛感します。
そして社会や人を悪いと感じてしまい、さらに孤独になり、元気を失ったり、憎んだりします。

孤独な人に開かれた社会を目標にして政府やボランティア組織が相談窓口を設け、苦しむ人を助けるという仕組は重要と思います。
しかしそれだけでは苦しむ人は減らないと思います。

いかに社会が発達しても家族親類縁者を大切にし、助け合うという精神が必要です。

宗教や主義を第一とすると、自分と同じ宗教や主義の関係者を第一とし、家族親類縁者といえども別の宗教や主義の人と付き合わないということがよくあります。
この生き方は問題です。
宗教や主義を第一にする人は、別の宗教や主義の人を嫌ったり、差別したりしやすいと思います。
人間性がどうなっているか心配になるほど嫌いの度合いが強い場合が多いと思います。
これが宗教戦争や共産主義と自由主義の戦争などの原因です。

私はキリスト教を信じて約30年生きましたが、キリスト教の限界を感じ、そのことをキリスト教関係者にお話ししたらキリスト教関係者は私と関係しなくなりました。
私と関係すると不愉快になるからでしょう。

今は私はキリスト教から解放され、家族親類縁者とも人間的な付き合いができるようになりました。
付き合いの基本として人の命(Human Life)を大切にしています。

博愛の精神は家族親類縁者の助け合いを否定するものではありません。
家族親類縁者の助け合いを軽視するような博愛は真の博愛になっていないと思います。

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2008.11.15

思い上がりを捨てると苦悩が消える

081115

私は精神的に20才前後の約10年間が一番不安定でした。
苦悩していました。
アルコールを飲んだり、タバコを吸ったりしました。
ところが幸いなことに体がアルコールやタバコを受け付けませんでした。
精神的苦悩が消えるどころか、肉体的苦しみが加わってしまいました。
アルコールもタバコもやらないと決心できました。

20代半ばまで精神的苦悩が続き、折角入社した会社でも仕事が好きになれず、上司や同僚と人間関係がうまく行かず、退社を決心し、上司に退社すると伝えました。
そのことを両親や兄に伝えると、全員が大反対でした。
特にキリスト教信者であった兄は、上司や同僚が悪いのではない、お前が自我が強くて、自分は正しいとし、他人を否定しているだけである、そのような精神で転職しても新しい職場で同じ問題を起こす、まずは上司に謝れ、謝ることで思い上がりを捨てよと徹夜で私を説得し続けました。

大切にしてきた自我が脆くも崩れていきました。
涙が止まりませんでした。

上司に謝り翻意することは非常な恥でしたが、謝ったところ、なんと上司は、にこにこして、それはよかったと言いましたので大変驚きました。
上司は、君は問題を起こした、同じ職場という訳には行かない、それから昇進は1年停止とする、その後のことは君次第だ、新しい職場で頑張るようにと言いました。

自我に非常に大きな変化があったようで、新しい職場ではよく働き、人間関係で問題を起こさなくなりました。
それ以来、68才の今日まで精神的苦悩はほとんど消えたままです。
思い上がりを捨てることができると、かなりの精神的苦悩が消えることは事実です。

近年大麻(マリファナ)を吸う人が増えています。
大麻を吸うとちょっと陽気になるそうです。
楽しくないこと、苦しいことが多いのでしょう。
しかし大麻で一時的に陶酔の境地に入れても自我も現実も変わらず苦悩は続きます。

思い上がりを捨てるには信仰が有効です。
しかし既存の神仏は馬鹿々々しくて信じることができないと思う人が多いでしょう。
それならば数十億年の歴史を持つと思われる人の命(Human Life)を信じるといいと思います。
高々数十年の経験知識しかない自我より人の命ははるかに生きる力と知恵に富んでいます。

自我ではない別のものを上にすることは自我の思い上がりを抑えます。

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2008.11.12

最高の法は人の命の重視

081112

神仏は絶対などと言っている宗教はうそです。
自信をもって人を殺傷するような宗教信者が現れます。
神仏の命令であったなどと言い訳をします。

真の宗教は人の命(Human Life)を大切にします。
殺人もせず、自殺もしません。
隣人が死にそうなのを放置しません。
自分を上にし、人を下にして生きるようなことはしません。

無宗教の場合でも人の命を重視しないような生き方は人の生き方ではありません。
人の命の重視はすべての宗教、無宗教より上位に置かれるべき法です。

この法をもって自分の現状を反省するといいと思います。
大きな視野で自分や他人のことを考えることができると思います。
自分の命も他人の命も人の命であることがわかります。

他人の命を軽視する人は自分の命も軽視します。
自分の命を重視する人は他人の命も重視します。

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2008.09.15

今生きているのは「人の命」の働きによる

A242

生きる自信がないと思っている人も今生きていることは事実です。
自信がないと思っているのに生きていますから、自分を生かしているのは自分以外のものです。
そこで、自分ではなく、自分を生かしている自分以外のものに注目してみたらどうでしょうか。
自分を生かしている自分以外のものに自分が協力するようになればぐんと生きやすくなると思います。

自分を生かしている自分以外のものを私は「人の命」と呼んでいます。
自分に生きる自信がないなら、自分で生きるという考えを捨て、「人の命」に助けて下さいと言った方がいいと思います。

「人の命」に自分がやるべきことは何ですかと問うならば、「人の命」は、「私が生かしているからあなたは死なない。あなたは『人の命』が助けてくれているから自分は死なないと知りなさい」と言うでしょう。

死なないと安心すると冷静に周りを見ることができます。
「人の命」以外にも自分が生きることに役立つものが数多くあることを知ります。

それは家族であるかもしれません。
自分を助けてくれる家族に感謝するならば、彼らは従来の消極的協力から積極的協力に変わるでしょう。
自分に生きる希望があれば、彼らも協力のしがいがあるからです。

それは自分の周りにいる他人かもしれません。
他人であっても誰かは自分のことを心配してくれているものです。
やはり自分に生きる希望があればより協力的姿勢に転じるでしょう。

日本社会は未熟と言っても、人々が生きるのに便利なサービスがいろいろあります。
政府や民間組織などのサービス機関、事業を起こす仕組、就職する仕組、もの、知識などです。
そのサービスに不平不満を持っているとサービスを利用しません。
しかし不完全と思ってもサービスがあることに感謝するならば、自分が思う以上にサービスは自分が生きるのに有効に作動します。

私は最初に就職した会社に不平不満を持っていました。
自分は正しい、会社が悪いと思って、会社をやめようと思いました。
しかしクリスチャンの先輩が「自分を主張して会社を悪く言っていたら、あなたはどこへ行っても不平不満を持ち、どこでも行き詰まるでしょう」と夜を徹して諭してくれました。
何故か自我の崩壊を感じ、涙が止まりませんでした。
その時は私は自分以外のものとしてキリスト教に助けを求めました。
すると自分から解放され自由になり、会社に対する不平不満が消え、反対に会社が自分に役立つものとなりました。
生きる自信を深めていきました。

現在は自分を生かしている自分以外のものは「人の命」と思っています。
人はウイルスのような状態から数えれば数十億年の歴史を持っています。
この数十億年の間に人に蓄積された生きる経験知識は、自分の経験知識をはるかにこえています。
この数十億年の生きる経験知識が、原精神として自分を生かしています。
そこでこの原精神を「人の命」と呼んで私は信じています。
「人の命」は人が生きている限りすべての人に働いています。
生きる自信がないと思っている人にもちゃんと働いています。

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2008.09.12

祈ると助けてくれるのは「人の命」

A240

人は、大昔のウイルスのような状態の時から数えれば数十億年の歴史を持っています。
今生きている人は奇跡です。
よくぞ生きていると思います。

生きている人に働いている精神を考えてみましょう。
人の精神は自我だけではないと思います。
数百万年前以前と思いますが、人にも自我未発達の時代があったことは容易に想像できます。
そのような時代でも、自我とは異なる、生きることについて非常に経験知識豊かな原精神が作動して人を生かしていたと思います。
だからこそ自我未発達の時代でも人は生き残ることができたのだと思います。

この原精神は、自我が認識しないので、現代人には存在しないと思うかもしれませんが、実はそうではないと思います。
現代もゆっくりと発達しながらちゃんと作動していると思います。
自我がその働きを認識しないだけだと思います。

自我が発達した理由は、自我が発達した方が人はさらに生きやすいからだと思います。
原精神だけでは早死にする恐れが高かったと思いますが、自我が問題を解決するようになって人は早死にする恐れを大幅に下げました。
それなのに自我が苦悩の原因になりやすいのは、自我が、原精神を認識しないため自我は精神の主体と思い上がり、無理して自我だけで生きようとするからだと思います。

もし自我が思い上がりをやめ、原精神を思い、原精神の生命力の助けを借り、原精神と二人三脚で生きると考えるならば、無理は大幅に減じます。
さらには実は本当に自分を生かしている力は原精神ということに気付くと思います。

原精神は数十億年の歴史を持っているのに対し、自我は数百万年の歴史です。
しかも原精神は記憶されている数十億年の経験知識が赤ちゃんの時から作動するようになっていますが、自我は赤ちゃんの時から学ぶ経験知識が作動するようになっています。
その生命力の差は歴然としています。

赤ちゃんの時はまだ自我は思い上がっていません。
主に原精神が作動し、自我は原精神と自然に連携して作動していると思います。
自我の経験知識が増えるにしたがって自我が思い上がり、自分だけで問題を解決しようとしてよく苦悩します。
したがって自我が思い上がりをやめ、原精神の働きを認識し、感謝し、その助けを借りることは問題解決のため必要不可欠と思います。

私は苦悩に陥ったとき原精神に助けて下さいと祈ります。
原精神を「人の命」と呼んで信じています。

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2008.07.19

月と花火

A215

昨夜は大変蒸し暑かったのですが、真夜中、南天に満月を楽しむことができました。
月は、暗い空で静かに穏やかな光を放っていました。

大昔の人にとって夜の月や星は神秘でした。
神々でした。
それだけに多くの人が夜空を見上げ、月や星が何を自分に言おうとしているか読み取ろうとしました。

しかし今は科学の進歩で月や星が何であるかわかってきたので神秘性が失われ、人々はあまり夜空を見上げなくなりました。
代わりに花火を美しいと言って夜空を見上げるようになりました。

確かに花火は見事な作品です。
しかし私は花火好きではありません。
横浜に住むようになってからは娘達の希望で二度花火大会につきあっただけです。
花火大会は心も体も休まらないからです。

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2008.06.23

人の起源は数十億年前?

A198

ヒトなど脊椎(せきつい)動物の祖先は脊索(せきさく)動物で約5億年前には存在していたという学説があります。
遺伝子情報の比較研究成果です。
現代生きているホヤ(尾索動物)やナメクジウオ(頭索動物)は脊索動物です。
脊索とは脊椎の原始的な形で筋です。
最近の遺伝子情報の比較研究成果によるとホヤよりナメクジウオが古いようです。

科学は進歩しますのでナメクジウオよりヒトの遺伝子配列に近い生物が発見されるかもしれませんが、ヒトの遺伝子情報から数億年前の人の姿はナメクジウオのようであったという説は確からしさが増したと思います。

科学の確からしさにも限界がありますから、私は、人は、数千万年前、数億年前、あるいは数十億年前、ウイルスのような状態であったとあいまいな表現をしてきました。
しかし上記の最近の科学の成果を取り入れ、これからは、人は数十億年前ウイルスのような状態であったと考えられると表現することにします。
数十億年前というと地球起源の大昔です。
1億年でも大変な長時間ですから地球誕生後数億年ですでに地球上には無数のウイルスが存在したということは十分確からしさがあります。
そのウイルスの中に今日の人になるウイルスが存在したと考えられます。

人の起源が数十億年前となると、よくぞ人は絶滅することなく今日まで生きてきたと感動します。
厳しい環境、厳しい環境の変化に耐える力、対応する力を持っていたのだと思います。
この奇跡的な遺伝子情報に基づき形成された人の体に実現する精神はこれまた大きな、人を生かす力を持っています。

精神は、自我が認識しない精神本体と、感じたり、考えたりする自我からなると考えられます。
自我が発達したのは数百万年前からと考えられます。
その前の数十億年間は精神本体が生物学的に作動し、人を生かしてきました。
この精神本体は今日も自我に認識されることなく、黙々と、生きている人において作動し、人を生かしています。

私達は自我を最高の精神と思っていますが、実は縁の下の力持ちである精神本体の働きなしでは何もできません。
それでは自我なしで精神本体は人を健全に生かしてくれるかというと否です。
自我が発達してからは自我と精神本体の二人三脚の上に人は健全に生きます。

精神本体は、自我がわかる方法で自我にいい悪いを教えてくれるといいのですが、そのようなことはしません。
精神本体は自我を敵と認識しません。
自我が健全であろうと不健全であろうと、わが子を助ける親のように自我を助けます。

この精神本体の働きを理解すればいかに自我が健全であるかが重要であるかわかります。
自我が生きると思えば精神本体は生きる方向で自我を助けます。
死ぬと考えれば死ぬ方向で自我を助けます。

私は、人が生きる目的は生きることと思い、精神本体を人の命(Human Life)と呼び、この人の命を信じて生きています。

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2008.05.30

スポーツは嫌いではないが

A185

スポーツが好きな人は北京オリンピックが近いと興奮していることと思いますが、私はスポーツは嫌いではありませんが、好きというほどでもありません。
入場料を払ってスポーツの試合を見たことは一度もありません。
暇でテレビでも見るかと思ってつけた時、たまたまスポーツ番組をやっていると見る程度です。

スポーツ選手を見ると、体力、精神力兼備のすごい人だと思います。
その能力に感動します。

しかしスポーツで生きると考えたことは一度もありません。
まず親が考えませんでした。
それから、特別なスポーツ能力がなかったのでしょう、学校の体育の先生で私をスポーツ選手に育てようとした人は一人もいませんでした。

学校時代の体育の成績はよかった方です。
どんなスポーツも楽しんでやっていたからでしょう。
大学では弓道部に所属し主将になりました。
またマラソン愛好会のマネージャーをやりました。
しかしこれらのスポーツに対する熱心は続きませんでした。

どうもスポーツは私にとって体育か遊び以上のものではありません。

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2008.04.30

人の命を信じて生きる

A167

今生きているという事実、これは非常に重いことだと思います。
人類の始祖は、ウイルスのような状態であったと思いますが、その誕生は数千万年前、数億年前、もしかすると数十億年前と考えられます。
人の命は気が遠くなるような長い歴史を持っています。
親から伝わっただけではありません。

通常、人の命と言うと誰でも自分の命と考え、自分は死ぬ、人の命ははかないと思います。
しかし、世界では今も人口は増え続けています。
自分は死ぬが世界には必ず誰かがいて人の命を未来に伝えていきます。
この人の命に注目するなら、はかないどころか、人の命は永遠です。

人の命は自分ではありません。
生きているすべての人の中で働いている共通の存在です。
人の命は、自分とは別の存在で、気が遠くなるような長い歴史を持っています。
この人の命のおかげで私達は生きています。
少なくとも数千万年を生きてきた人の命は、生きる方法について自分とは比較にならないほどの経験知識を持っているからです。

私は人の命を信じます。
今自分が生きているのは人の命が自分の中で働いているからだと思います。
だから人の命を信じて生きます。
いつか私の肉体は古びて私は死にますが、その時まで人の命と一緒に生きます。

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2008.03.29

利益主義をこえる健全な価値観を持とう

A130

子供が自殺する、人を殺すなどすることは非常に大きな問題です。
通常は生きたい、人を殺したくないという思いが強いと思いますが、自殺したい、人を殺したいと思ってしまう思考混乱の子供が育っている現実があります。
自我は後天的に育つ領域が大きいと思いますから子供が育つ環境は非常に重要と思います。

現代は利益主義の会社が子供達に供給するテレビ、ビデオ、ゲームなどがつくる世界と、家庭、学校、町などの環境にほとんど調和がなく、子供達はその多様性に振り回され、心の中を整理できていない恐れがあります。

特に会社は強者を強調した非現実的過激な物語をしばしば殺人的破壊的映像と共にこれでもかこれでもかと提供し、非現実世界に入り込みやすい子供達の心を虜にしています。
店でゲーム機の前から離れない子供を前にどうすればいいかわからないで立ちすくんでいる親をしばしば見かけます。
最初は心配しても、ちゃんとした店でゲームが売られているのでゲームは子供に有害ではないと自分に言い聞かせ、ついにはゲームを買って与えてしまったりします。

大半の子供達は、やがてゲームなどに免疫ができ、非現実の世界から簡単に現実の世界に戻ることができるようになりますが、現実が子供にとって拒絶的である場合、子供は非現実に閉じこもるかもしれません。
その非現実によって殺人的破壊的自我が形成されていたら子供は何をするかわかりません。

利益主義の会社が子供向けに供給しているテレビ、ビデオ、ゲームなどについては、内容の健全性について評価する社会的仕組があっていいのではないでしょうか。
社会的評価に行き過ぎがある場合もあると思いますが、現代のようにあれもこれも自由という考えは子供達にとって危険と思います。
大人達にも危険と思います。

しかし民主主義の日本では私達人々が健全不健全を判断する知識を持つ以外に子供達を救う方法はないと思います。
国会や政府は腐敗が非常に進んでいます。
人々が利益主義をこえる健全な価値観で国会議員を選挙する必要があります。

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2008.03.24

意識的に休息をとろう

P1010030
奥多摩川苔川上流百尋の滝

50才を過ぎてからですが、会社で休みをとらないで椅子に座って長時間仕事をしていたとき、突然平衡感覚を失って床に崩れ落ちそうになったことがあります。
その時は手で机につかまるようにして体を支えている間に何とか直りました。
危ないと思って休息をとりました。

夏、暑い日、休みをとらないで庭仕事を続けていて、妻から休んだらと言われて縁台に腰を下ろしたら意識を失い、何がどうなったのか全然わからなかったのですが、「お父さん、お父さん」と呼びかける声が聞こえて意識を取り戻したことがありました。
このときも危ないと思って休息をとりました。

寝ると天井が一方向にぐるぐる回って止まらないことがありました。
これは大変なことになったと思いましたが、休息をとったら、ものが正常に見えるようになりました。
目が回る忙しさという言葉がありますが、本当に目が回ったので驚きました。

ある時、変な感覚の世界に入って周りと自分が調和しなくなり、過去のことは忘れ、未来のことを考えることができなくなってしまい、自分はどうなってしまったのかと不安を覚えたことがありました。
このときも休息をとることで現実に戻ることができました。

どうも私は神経系が異常になるまで何かをし続ける傾向があります。
疲れると眠くなるならまだいいのですが突然上記のような症状になるのは危険です。
そこで現在は年金生活で概して自由ですので意識的に休息をとるようにして疲れないようにしています。

早めに疲れを感じ、休む人はいいのですが、神経系が異常になるまで疲れを感じない人は、意識的に休息をとるようにすることが安全です。
疲れを感じなくても実は疲れていて危険な状態にあることはよくあることだと思います。

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2008.02.27

うそをつかないことを習慣にしよう

A103

子供の頃よくうそをついて親から叱られてばかりいました。
そのうちに、うそはうそを呼ぶこと、うそはばれること、問題を大きくするより、失敗や悪事は正直に話した方が問題を小さくできることを学び、うそをつかない習慣を次第に身につけることができました。

漁船と衝突したイージス艦のことですが、防衛省の説明が、あいまいかつ変な上に、時間と共に訂正、新事実の発表が小出しで行われてきました。
誰かのうそが問題をどんどん大きくし、とうとう防衛省そのものが問題であるということになり、福田康夫総理や石破茂防衛大臣まで防衛省は改革が必要と発言する事態になりました。
毎年5兆円もかけて維持している防衛省が問題であるとは人々にとって迷惑千万です。
改革は容易ではありませんから、解体の方が問題解決になるかもしれません。

失敗したり犯罪を犯したりしたとき、うそをつくと、そのうそが大きな問題をつくります。
自分や自分が所属する組織の評価が下がることを恐れて思わずうそをつくことは心情的に理解できますが、ほとんどの場合、自分も組織もその信用が落ちる結末を迎えます。
仮に事実が明るみに出なかった場合でも、疑惑が残り、結局自分も組織も信用が落ちます。

どうせ自分の信用が落ちるならば、うそをつかないで自分の失敗や犯罪を正直に話した方が得です。
自分の信用は下がるが、うそをつかなかったということで信用の下がり方はそれほどひどくなくてすむということもあります。

事実を話す、うそをつかないということを習慣づけしますと、失敗や犯罪を反省することを覚え、驚くほど明るくて自由な人生を楽しむことができると思います。

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2007.12.19

千の風になって

A74
横浜 舞岡公園

秋川雅史氏が歌っている「千の風になって」が大流行しているそうです。
歌詞(原作)は誰のものかわからないとのことです。
日本語詩と作曲は新井満氏です。
歌詞、曲、歌手、その声に、死後のことを考える人の心に響くものがあるのでしょう。

その中に「私のお墓の前で泣かないでください。そこには私はいません」というくだりがあります。
仏教僧や墓地墓石販売業者はこの歌の流行を苦々しく思っているかもしれません。
しかし歌は歌、お墓はお墓、お墓を要らないという人が急速に増えることはないでしょう。

私はお墓の中に死者の霊は存在していないと思っています。
「千の風になってあの大きな空を吹き渡っています」ということもないと思っています。
「千の風になって」は詩的表現だと思うし、そう思う人もいるのだと思っています。

私はすでに父母が亡くなっていますが、父母は私の精神の中に生きています。
私が気付かなくても父母は私に大きな影響を与えていると思います。
さらに父母の思い出が私の記憶の中に生きています。
夢の中で会うこともあります。
父が私に「忍」と一文字書いてくれた色紙などを見ると、父の愛を感じ、目頭が熱くなります。
母がつくってくれた綿入れを着ると、母の愛を感じ、涙が出ます。

私は老人です。
家族に何か言うとしたら、
「私のお墓をつくらないでください、お墓には私は住みません。私はあなたがたの中に生きます。」と言いたいと思います。
しかしお断りしますと言われるかもしれませんね。

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2007.06.01

過信で失敗

299
奥多摩の日原川

今日はあるボランティアグループの企画でいろいろな国の留学生達と鎌倉のある臨済宗の寺で座禅をし、その後神社仏閣を数か所巡るということで、家を出て、座禅をする寺の前まで行ったのですが、体調が悪く、回復不能でしたのでそこで引き返しました。
誘った留学生は私と一緒に参加できることを楽しみにしていたと思いますが、ほかのボランティアに世話を託さざるをえませんでした。

体について無理がきくと過信していたのが失敗の原因です。
疲れをため、さらに風邪をひいて喉の調子が悪かったにもかかわらず、大丈夫だろうと思って十分体の調整をしませんでした。
今日は無念の思いに沈みながら家に帰りました。

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2007.05.29

自我を主張し、人の命の重要性を知らない

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松岡利勝農林水産相が昨日28日に自殺しました。
自分の不正を認めて反省することができず、法律(成文法)に違反していないという論法で自分(自我)と大臣の地位を守れると思った人が、自我も大臣の地位も、さらには自分の命も失ってしまいました。
見栄を張っていたが、実は、自分を罰したのは自分という形になってしまいました。

道徳や教育を強調する安倍晋三総理が、閣僚の不正をかばったために松岡氏の自殺という不道徳、非教育的な結果を誘発したことは安倍総理の不徳であったと思います。
安倍総理はタバコを吸いながら禁煙を説くような矛盾に満ちた人だと思います。

誰でも善悪半々です。
安倍氏にも松岡氏にも欠けていたことは、人に道徳や教育を説く前に、自分も善悪半々と知り、善をやるようにし、悪を反省して捨てる努力であったと思います。
彼らの最大の罪は、人の命の重要性を心から理解していなかったことです。

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2007.05.22

軍人の現実の姿

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府中 いこいの森

Office of The Surgeon General, United States Army Medical Commandらが行なった調査報告書”Mental Health Advisory Team (MHAT) Ⅳ, Operation Iraqi Freedom 05-07, Final Report, 17 November 2006”は、イラクで戦争しているアメリカ軍人のモラルの低さや規律の悪さをデータをもって詳細に報告しています。
軍人がいかに一般市民の命や権利を軽視するかを示しています。
一般市民を侮辱、罵倒する、拷問する、殺傷する、仲間の犯罪を上に報告しないなど、戦場における軍人の異常心理がよくわかります。

これは別にイラク戦争だけの問題ではないと思います。
戦場では殺すか殺されるかという緊張下に軍人は置かれますから人命重視とか法重視の精神はどこかに飛んで行ってしまうのでしょう。

戦争を軽々しく論じる人々がいますが、自衛隊員だって戦場では規律が悪くならない保障はありません。
かつての日本軍人は規律が保たれていたと主張する人々も、この報告書を読んで、本当にそうだったかとよく考えてみるといいと思います。

日本の防衛という義のみ考え、現実起こるであろう人命の軽視を考えないと、やらないですむ戦争をやるような大失敗を犯します。

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2007.05.19

現実を仮想世界と錯覚

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映画館で映画を見た後は、大勢の人と一緒にぞろぞろ外へ歩いたり、大勢の人が歩いている騒がしい町に出ますからすぐ現実に引き戻されます。
ところが自分の部屋で一人でビデオを見ると、仮想が続き、なかなか仮想世界から脱出できません。

孤独な人で自分の部屋に引きこもりビデオや本に耽溺する傾向がある人は、仮想世界慣れし、現実世界まで仮想世界と錯覚しやすいということがあると思います。
つまり現実が見えにくくなることがあると思います。

仮想世界と現実世界との境界が曖昧になり、現実が見えなくなると、やりたいと思ったことを仮想世界でやるのと同じ感覚で現実世界でやってしまうことがあると思います。

ところで宗教の世界はある種の仮想世界だと思います。
したがって熱心な信者ほど仮想世界慣れしており、現実世界まで仮想世界と錯覚しやすい状態にあると思います。

宗教の教えがよい教えならば信者は現実世界を仮想世界と錯覚していても特に大きな問題を起こしません。
ところが殺人を正当化するような教えの場合は、大問題を起こします。
オウム真理教の教祖や幹部が殺人を犯したのはその例だと思います。

仮想世界を楽しんでいる時、理性的に仮想を仮想と思っているようでは、映画でも読書でも宗教でも面白くありません。
仮想を現実と思うくらい没入すると面白い訳です。
しかし仮想から脱出する方法を失いますと悲喜劇を生むと思います。
ところが脱出しにくいという現実問題がありますから、犯罪に誘導されやすい仮想には近づかないことが大切と思います。
よい映画、よい本、よい宗教を選べというのはそういう意味だと思います。

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2007.05.01

1年やれば1年の経験と知識

280

森林ボランティア活動をやっており、昨日は東京都のあきる野にある山の木の育苗場の草取りに行ってきました。
私が参加しているボランティアグループは奥多摩の森林保全を主目的にして木の苗の供給を行なっています。
あきる野の育苗場では主にトチノキの発芽2年目の苗木が育っています。

横浜に住む私がわざわざ奥多摩の方に行くのは、奥多摩の自然が好きということのほかに、このグループの先輩達の情熱と実行力に感動したからです。
植物の専門家もいて、毎回参加し、山の木のことだけでなく、育苗場に行けば育苗場の雑草についてまでその薀蓄を語ってくれるのでこの活動を初めて2年目の私には勉強になります。

まだ黙々として作業をやっていますが、初めて参加したボランティアから、これは何の木の苗ですかと聞かれたりすると、昨年私が初めて参加したとき山の木の苗を何も知らなかったことを思い出します。
1年やれば1年分の経験と知識、10年やればきっと10年分の経験と知識が身につくのでしょう。

2年生の私は、まだわかったという気持ちが全然しません。
学び続けなければいけないと思っています。

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2007.04.29

人生とは人の命と自我の二人三脚

279

人を信頼しても人から信頼されないことが多い社会です。
信頼しなくて信頼されることはまずないでしょう。
このような人間関係が近い人の間で起こりますから悲劇です。
しかしこれが現実なら何かいい方法を考えて生きないと人生楽しくありません。

現実は自分も他人も自我は信頼性半々ではないでしょうか。
しかし百万年、1千万年、1億年、ウイルスの状態であったことも考えればもしかすると数十億年の歴史を持つかもしれない人の命(Human Life)を考えると自分についても他人についても見方が変わります。
自分も他人もこの気が遠くなるような長い歴史を持った人の命を等しく持っています。

私はこの人の命については信頼しています。
これまでの67年の人生経験から人の命は私の信頼に応えてくれたとの思いを深くしています。
したがって人生とは人の命と自我の二人三脚と思っています。

死んでしまったら人の命など消えるではないかと思うでしょう。
死んでしまえば自我も消えますから一向に構いません。
消えた自我が苦悩することはないからです。

この思いがあると仮に近い人から不信にあっても精神的痛手を受けることがありません。
不愉快な思いをしたとしても自分も他人も自我は信頼性半々と思っているから驚きません。

神仏信仰などとむずかしいことを考えるよりこの人の命を信じる方がはるかにわかりやすいと思います。

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2007.04.22

外国の人々を「奴ら」と呼ぶようでは

275

拉致を問題にし、朝鮮の人々を十把一絡げにして「奴ら」と呼んで軽蔑する人がいます。
人の命の軽視を感じます。
朝鮮の人も人という認識を持っていません。
このような感情が日本人の間で支配的と思うと心配です。

あの家の主人は悪いことをしたのに心から謝らないからと言って奥さんや子供さんたちまでのけ者として苦しめ制裁するようなことは普通の人だったらしないでしょう。

ところが朝鮮に対する日本の制裁を見ますと、この制裁は普通ではありません。
国連安保理の制裁決議の範囲をはるかに逸脱しています。
日本は感情的になりすぎていると思います。

朝鮮は民主主義ではありません。
政府と人々を識別すべきです。
犯罪とそうでないことを識別すべきです。

反感は反感を呼び、事態を悪い方向へ持って行きます。
問題を小さくするのではなく大きくします。
拉致問題も解決しなくなってしまいます。
ちょっと冷静になって日本は命と法を重視するようにした方がいいと思います。

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2007.03.17

人生の方向が大切

249

東に行くべきなのに西に向かってしまったら、西に行く過程において成功しようが失敗しようが大失敗です。
つまり人生において重要なことは人生の課程において成功することではなく、人生の方向が正しいことだと思います。

事業や仕事において成功しても人生は大成功であったとは言えません。
人生の方向が間違っていたら事業や仕事における成功すら空しいものに感じるでしょう。

人生の方向が正しければ、失敗が多くても人生大失敗ということはないでしょう。
人生の方向が正しかったことは大成功であったと思います。

それでは正しい人生の方向とは何でしょうか。
自分の命や他人の命を大切にして生きることではないでしょうか。

命はあまりにも当たり前であるため方向ではないと思い、地位、富、業績や名声を方向と思ってしまう人が多いと思います。
宗教や道徳のようなものを方向と思う人も多いと思いますが、どうも既存の宗教や道徳は教条主義になっていて問題を起こすことが多いのではないでしょうか。

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2007.02.27

しんがり泣かせ

238
丹沢 左が大室山(1588m)、中央が檜洞丸(1601m)、その右ちょっと奥に見えるのが蛭ケ岳(1673m)。
丹沢では蛭ケ岳が最高峰です。

70歳前後の老人グループが山にハイキングに行きました。
山を登り始めるとまもなく一人が遅れだしました。
しんがり(一番後ろの人)を務めた人はその人のペースに合わせて登りました。

ところが、遅れた老人は、しんがりが後ろから登ってくるとマイペースで登れないから先に登ってくれと言い張りました。
しんがりはそんなことはできません。
「気にしないで下さい。休み休みゆっくり登りましょう。何かあったら何でも言って下さい」と言いました。
ところがこの老人は「後生だから一人にしてくれ」と言い張りました。
説得は不可能と判断したしんがりは適当に先に行っては、遅れた人の様子を気付かれないようにそっと観察していました。

こうして何とか全員が目的地につきました。

下りは今度は別の人が遅れだしました。
休み休み何とか乗り物がある所まで下りました。
この人はしんがりに先に言ってほしいとはいいませんでした。
むしろしんがりが一緒にいてくれて安心だったようです。

しんがりにとってどちらが助かるかと言うと、もちろん後者です。
前者は、まさにしんがり泣かせです。
しんがりが、遅れた人を一人にして先に行くことは許されないからです。

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2007.02.09

人命の重視は基本法

227

法を重視すると法に縛られます。
法を軽視すると法から自由ですが、今度は自分あるいは他人に縛られます。

ところで自分も他人もいい加減なもので、その時と場所で考えが変わります。
昔あっちと言っても今はこっちと言うようなことが起ります。
よく考えが変わると信用を失います。

不動の精神を持つためには法を重視する必要があります。

ところが法と言っても人間がつくった法をあれもこれも重視したら身動きがとれなくなります。
第一、普通の人が不文法(慣習法、判例など)と成文法に精通するなどということは不可能です。

そこで普通の人は、基本的な法を学び、それを人生に応用して生きます。
宗教を信じる人が多いのですが、いい悪いは別にして宗教が概して基本的な法を包含しているからだと思います。
不動の精神を持ちやすくなり、生きやすくなるからだと思います。

基本的な法の最たるものが人命の重視ではないでしょうか。
人命には自分の命も他人の命も含まれます。

今日本にある最大の課題はこの人命の重視という基本的な法に対する価値観が揺らいでいることだと思います。
自分のことは考えるが他人のことは考えない非人間的言動が目立っていると思います。
宗教心がないという言い方をする人が多いのですが、宗教は千差万別ですから、人命重視の心がないと言った方がわかりやすいと思います。

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2006.12.31

人の命

195
沖縄識名園

人類の文化水準は着実に向上していると思いますが、まだまだ人命軽視の心は猛威を振るっていると思います。
自分は正しいと思っている人でも人命を軽視している人は多いと思います。

いじめ、人殺し、制裁、戦争、日本ではクリスマス処刑(死刑)、世界では殺すためのサダム・フセインの裁判と処刑で2006年を締めくくってしまいました。

実は人間の行動が問題ではなく、心が問題です。
枝葉が問題ではなく、根幹が問題です。

この簡単な原理がわかっていないため、あるいは知りたくないため、人殺しを防止するため人殺しをし、戦争を防止するため戦争をすると言った愚かな行動を人類は繰り返しています。

心と行動の関係を研究するということは、自分の心のみにくさを知ることになるかもしれません。
だからと言って行動を行動で解決しようとしていてもそれは賽の河原(無駄な努力)です。

隣人はどうであれ、日本はどうであれ、隣国はどうであれ、世界はどうであれ、まずは自分の心のみにくさを知ることが第一と言うことでしょう。
自分は、本当に自分の命、他人の命を大切にしているかと考えることが大切と言うことでしょう。
そして人命重視を決心することでしょう。

それではまた来年もよろしくお願い申し上げます。

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2006.12.13

日本に漂ういじめの雰囲気

183

今学校におけるいじめが大問題になっています。
いじめる人はいる。
これが現実です。
したがっていじめられたぐらいで自殺するなという教えはそれはそれで大切と思います。

一方で社会や学校や家庭にいじめる雰囲気があるといじめる人が増える現実があります。
このいじめる雰囲気を問題にすることが重要です。

校長や教育長が、いじめはなかったといじめを隠しているようではいじめる雰囲気を除去することはできません。
このような校長や教育長はすぐ更迭した方がいいと思います。
いい年をしてしかも重要な地位にあって教育の基本を知らないような人は注意したぐらいでは直りません。
教育をよく考える人にすぐ変えるのが一番と思います。

ところで現在の日本の北朝鮮に対する制裁を見ていると、拉致や核兵器開発と関係ない一般の人々まで制裁しています。
北朝鮮は民主主義国ではありません。
人々に罪ありとするのは早計です。
犯罪者とそうでない人を区別しない日本の制裁で北朝鮮の人々は反日感情を強めるでしょう。

したがってこの制裁の本質はいじめの本質と似ていると思います。
強い方(日本)が威張って弱い方(北朝鮮)をいじめています。
その行動は理性的ではなく感情的です。

このような日本に漂ういじめの雰囲気が、学校におけるいじめと無関係ということはないと思います。

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2006.12.07

すべて変わる

180

テロに勝つと叫んだブッシュアメリカ大統領を歓呼しイラク戦争を支持したアメリカの人々は、今ではイラク戦争反対だそうです。
変わらないと思ってもすべての物事が変わるとつくづく思います。
変わるなと言っても変わります。

とすると、今絶望状態にある人は次は絶望状態でなくなることになります。
どれぐらいの時間で変わるかわかりませんが、変わることは確実です。

だから今生きている人は、絶望して死に急ぐことがあってはならないと思います。

たとえば、いじめられている状態が永遠に続くなどということは決してありません。
反対に、望ましいことではありませんが、大きく変化して、将来は自分がいじめる人になるかもしれません。

すべては変わると思って、絶望状態にある人は、希望をもって生きてほしいと思います。

ところで、生きている人は死にます。
最近放送番組で長寿に関するものが人気ですが、長生きの方法については苦労した割には長生きしないものです。
つまり死なない思っても死にます。
すべてが変わるからです。
そこで死の問題については死ぬまで生き生きと生きると考えると気分が楽になります。

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2006.11.28

自我否定の矛盾

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宗教的あるいは道徳的な人の中に自我を捨てよとか、私は自我を捨てたと言う人がいます。
しかし自我を捨てた人はいるでしょうか。

自我を捨てる主体は何かと考えてみるといいと思います。
それは自我です。
つまり自我が自我を捨てたと言っている訳でから実は自我は存在しています。
矛盾です。

矛盾と批判されると彼らは面白いことを言います。
「私が言ったのではない、神が言われた」などと言います。

仮に神が言ったとしても、神が言ったと思ったのは自我です。
そして神が言ったと言ったのは自我です。

もっと面白いことを言う人がいます。
「私は自我ではなく、神である。」
真実なら矛盾ありません。

ところが彼らは普通の人と全然変わらない生活をしています。
変わっているのは口で「私は神である」と言うことだけです。

確かに自我は神であるという思想はあります。
しかしこの場合は自我を神と言っている訳ですから自我を捨てたことになりません。

自我を捨てることが不可能なら、自我を肯定し、自我のあり方を考えた方がいいと思います。

私は自我は人の命(Human Life)の次に重要なものだと思います。
人生とは人の命と自我の二人三脚だと思います。

(注)ここで人の命とは、精神本体、つまり精神全体から自我を引いた基本的精神、原始的精神、原精神のことを言います。
自我未発達の時代に人に作動していた精神と考えるとわかりやすいと思います。
人は、数千万年、数億年、もしかすると数十億年かけてウイルスのような状態から人に進化してきたと考えられます。
精神本体も気が遠くなるような長年月をかけて発達してきました。

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2006.11.19

精神本体と自我の役割分担

171
月夜見山から見た奥多摩の山並み

精神として通常私達が認識できるのは自我です。
感じたり、学んだり、考えたり、行なったりする主体です。

しかし人が生きるのに機能している精神が自我だけでないことは何人も否定しないでしょう。
自我よりはるかに強大な精神が働いて人を生かしていることを感じるでしょう。
私はこれを精神本体と呼んでいます。

精神を地球にたとえるならば、自我は表層の薄い地殻だと思います。
そして精神本体は地殻の下の厚い地球の内部だと思います。

私達は地殻についてはかなりの知識を持っていますが、地殻の下となるとほとんど知りません。
同じように、私達は自我についてある程度の知識を持っていますが、精神本体についてはほとんど知りません。

ウイルスのような状態の時から数えるならば、人類の歴史は、数千万年、数億年、あるいは数十億年かもしれません。
数千万年としても人類は気が遠くなるような年月を生き、経験してきたと言えます。
その間人類はいろいろなことを経験し、知識として蓄えてきたと思います。
この知識は、自我が生後学んだり、考えたりして得る知識と比べれば、比較にないならない膨大な知識でしょう。
私達がこの知識を先祖から受け継いでいることは明らかです。

それではこの先天的知識はどこに蓄えられているでしょうか。
DNA、細胞、組織、そして生きている体全体が記憶に関係しているかもしれません。
さらには体の周りの環境が記憶に関係しているかもしれません。
つまり周りの環境があって記憶が再現するような仕組みになっているかもしれません。

この先天的知識を引き出し、生きることに役立たせているのが精神本体であると考えられます。

自我が、生きている体に実現しているように、精神本体も生きている体に実現しています。
自我にしても精神本体にしても、精神は、化学的物理的生物学的有機物であるDNA、細胞、組織、体などと違って形がありません。
神経系は、精神実現に深い関係がありますが、精神ではありません。
精神は生きている体に実現している生命機能です。

精神本体と自我は緊密な関係にあり、相互に影響しあっていると思います。
しかし、何故か、自我は、精神本体が引き出しえた先天的知識を、自我が理解できる形で引き出すことができません。

どうも役割分担があって、自我は精神本体が持っている知識を無理に知る必要がないのかもしれません。
つまり、精神本体は、先天的知識を自分で管理し、活用し、人が生きるのに役立たせているようです。
人が生きるためには精神本体の安定が重要ですから、不安定な自我に支配されないようにしているのかもしれません。

自我に向かって精神本体は、無理に先天的知識を知る必要はない、精神本体は精神本体で人が生きるように活動している、また自我を助けている、だから精神本体を信じて、自我は自分がやるべき仕事をやって人が生きることに役立てと言っているような感じがします。

私は精神本体こそ人の命と思いますので、これを「人の命」(Human Life)と呼んでいます。
そして人生とは、人の命と自我の二人三脚と思っています。

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2006.11.10

真の敵は自分自身の中にあり

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岩手県南部の厳美渓 石英安山岩の台地を川が浸食してできた渓谷です。

アメリカは、軍事力で世界を支配すると考え、テロリストを生んで、テロに勝つと言って本当に戦争して、またテロリストを生んで、テロに勝てないと言って苦悩している国だと思います。

軍事力で威張る国には必ず挑戦する武装組織が誕生します。
つまりアメリカは、勝つことに情熱を燃やす人にとって最高の目標です。

今回の中間選挙で民主党が勝ちましたが、民主党は、戦争について考えを修正しても、軍事力で世界を支配するという考えは捨てないと思います。
アメリカの真の敵は、テロリストではなく、アメリカ自身の、この軍事力依存体質にあると思います。

人間の勝負好きは否定できません。
とすると、重要なことはすべての勝負を、人命を軽視してはならないという法(スポーツで言うならルール)の下に置くことだと思います。
軍事力依存体質の国はこの知恵にいまだ到達していません。

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2006.09.29

倒れても立ち上がるコスモス

134

家庭菜園に今コスモスが咲き乱れています。

コスモスは風雨ですぐ倒れてしまいます。
根元に近い部分の硬直した幹は曲がって立ち上がることができませんから倒れたままです。
しかし上部の柔軟な幹が曲がってそこから立ち上がり、上に伸びて花をつけます。

硬直した幹はもうどうしようもないかと思いますが、もし大地に接触しているならばそこから根を張ってコスモスの生長を助けます。

倒れても立ち上がり、最後には美しい花を沢山つけ、道行く人々を楽しませてくれます。

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2006.09.26

家族のことをもっと気にかけよう

131

子殺し、親殺しが増えています。
異常な犯罪であるため心配です。

通常、本能的に親は子を大切にし、子は親を大切にします。
それがそうではないとすると、何かが異常に作動しているということになります。
異常に発達した自我が作動しているのではないでしょうか。
自我は後天的に発達しますから自我がどのような環境で発達したかが問題です。

犯罪を犯した人が悪いと言って問題を片付けるのではなく、社会にも異常があると考える必要があると思います。
親が悪いとするなら親が育った社会をも問題にすべきです。

子が育つには20年ぐらいの年月が必要です。
したがって夫婦関係の安定化が非常に重要だと思います。

夫婦が協力して子を育てる、周りが夫婦を支援する、政府が夫婦を支援する、このような社会が必要です。
言い方を変えれば、夫婦が協力して子を育てない、周りが夫婦を支援しない、政府が夫婦を支援しない、ということはいけないとする社会が大切です。

戦後の産業構造の変化で人が流動化し、家族が崩壊し、個人が孤立しました。
個人が自由になった反面、親や祖父母や親戚の支援がないまま一人で夫婦関係や子育てに悩む人が増えています。
地方政府やNGOに専門の相談員がいても、具体的に支援してくれる人がいなければ悩みは解消されません。
一般社会が個人を支援すると言っても、親身になって支援することはできません。

現代においても、たとえ距離が離れて住んでいても、親は子を支援する、祖父母は孫を支援する、兄弟姉妹や甥姪を支援するなど、助け合いの家族の関係を見直す必要があると思います。
このような家族の助け合いは決して昔の家族制度の復活ではありません。

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2006.08.06

霊魂について

092

靖国神社に戦死者の霊魂が眠っているという考えがあります。
しかしほとんどの人はこの種の霊魂については、感じることなく、存在すると思っているだけではないでしょうか。

しかし本当に感じる人がいます。
恐らく自我の奥底に潜むものを自分の外に感じるのでしょう。
後天的に人が思い込んだものもあると思いますが、先天的に体に染み付いたものが精神的なものとして出現するということもあると思います。

霊魂を感じる人の場合、死んでも霊魂を感じる状態が続くという報告があります。
あるいは自分が霊魂に乗り移って活動を続けるという報告があります。
この種の報告は、実はその人が生き返った後になされたものですから死後の報告ではありません。
したがって霊魂不滅説が証明された訳ではありません。
死にそうな臨界状態で自我が感じたことと考えるのが妥当です。

ところで通常誰でも認識できる精神は自我です。
たとえば私は今ブログを書いていると認識する私です。

近代心理学者は自我の機能領域として潜在意識とか意識下という概念を持ち込み精神全体の働きを理解しようとしています。
いわゆる霊魂は潜在意識の中であるいは意識下に働く霊的存在ということになるのでしょう。

私は精神には自我のほかに精神本体があると考えています。
そう考える理由は、精神の中に自我とも、いわゆる霊魂とも異なる、人を生かす人共通の機能を感じるからです。

自我が死にたいと思っても人は簡単には死にません。
自我とは別の精神が働いて人を生かしているからです。
私は、この自我とは別の、人共通の精神を、精神本体、原始的精神、原精神などと呼んでいます。
人を生かしているので人の命(Human Life)と呼んでいます。
人の命とは、生きている人に実現している、人を生かす力です。
すべての人に共通して存在する素晴らしい精神的機能です。

この人の命といわゆる霊魂を比較してみますと、人の命は個性がないのに対し、霊魂は個性が豊かです。
人の命はひたすら人を生かすように働きますが、霊魂となると人によいことをする霊魂があるかと思えば、人に悪いことをする霊魂もあります。

ただし霊魂についてはその言葉の定義でその機能領域が大きく変わります。
ここでは誰それの霊と言われるような霊魂について考えてみました。

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2006.07.19

当面関係しない方法がある

068

批判または非難されると、より強い調子で批判または非難を返してくる人がいます。
攻撃的な性格なのでしょう。

このような性格の人に何か言うと、その人は油を注がれた火のように燃え上がります。

沈静化する方法は、当面何も言わない、しない、関係しない、でしょう。
何とか人間関係を改善したいと思って何か言ったり、したりすると、反対に人間関係が悪化します。

さて今問題の北朝鮮政府ですが、考えすぎて釣合いを欠き、理性的とは思えません。
攻撃的な性格の政府です。

ところが、よせばいいのに、日本政府は、すでに非難の段階から経済制裁の段階に入ってしまいました。
北朝鮮政府の性格をよく観察し、未来を予測しながら手を打っているか疑問です。
つまり日本政府もなかなか攻撃的です。
実は私達が攻撃的な性格を持っているからでしょう。

日本はいったい東アジアをどのような状態にしたいと考えているのでしょうか。
現在の怒りの感情で動いているだけとしたら今後の対立は想像以上に不愉快なものになるでしょう。

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2006.07.13

不安の時代、感情の時代

058

思うようにならない。
あいつは気に入らない。
いじめてやる。
やられる前にやってやる。

不安は人を感情的にし、短気にし、攻撃的にします。
すると人は周りや未来をよく考えることができなくなります。
とんでもない馬鹿をやってしまいます。

話し合いが思うようにならない。
あの国は気にくわない。
経済制裁してやる。
攻撃される前に攻撃してやる。

今の日本大丈夫でしょうか。
政府は次に何が起こるか予測して行動しているでしょうか。
短気で攻撃的な政府はまず失敗するでしょう。

今は不安の時代、感情の時代です。
このような時代にはあえて「よく考える」必要があると思います。

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2006.06.28

朝起きたら

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横浜の舞岡公園 緑豊かで広大な自然公園です。

朝起きたら家の周りの草木や鳥や静かな町を見るといいと思います。
世の中平和だと感じると思います。

ところが起きてすぐテレビをつけたり、玄関に行って新聞をとろうものなら戦争のニュースが多くて不安を感じるでしょう。
だいたいマスメディアは戦争のような事件を取り上げる傾向があるからです。
これでは戦争が多いと思うのは当然です。

しかしよく考えれば戦争しない人の方が圧倒的に多い訳ですから、戦争する人は少ないというのが事実です。

戦争の世界は人がまず頭の中でつくります。
そして普通の世界を忘れた人がやるから戦争が起こります。
でも戦争は実は普通でなく異常です。

だから戦争を企画したり、現に戦争をしている人は異常と思うのが健全な思考と思います。

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2006.06.19

霊感商法

038

私の経験から言うと、不安、恐怖、思い込みなどを持っていると霊感商法に弱くなると思います。
宗教団体に所属していたころ、先生の勧めに無抵抗で、宗教の本や雑誌にかなりのお金を使いました。
雑誌を買って友人知人に配るようなこともしました。
やがてこの先生と喧嘩し決別しましたので幸い霊感商法から解放されました。
今思うと本当に馬鹿馬鹿しいことをやっていました。

知人の中に、5年ぐらい前、50代の夫を亡くした女性がいます。
彼女は最初お葬式は夫の希望を入れて簡素にやりたいと考えました。
ところが夫の母からそれでは夫の霊が浮かばれないと批判され、その母が勧めた寺でお葬式をやることにしました。
夫を早く失ったことで動揺していた彼女は、夫の霊が浮かばれないと聞いたとき、お葬式を簡素にやったら夫に対し申し訳ないと思ったそうです。

後は完全にお坊さんの言いなりでした。
お坊さんはいかに夫の霊に対する供養が大切かと切々と彼女に話したそうです。
こうして彼女はお葬式に約1,000万円使いました。
もちろん出費はこれで終わりませんでした。
法要の案内が毎回ちゃんと届いたからです。

息子さんがいますが、彼は最初から「お母さん、早く目を覚ましてください。お父さんの霊より、お母さんがちゃんと生きることの方が大切です。お金はお母さんが生きるために使ってください。」と言い続けてきたそうです。

多少冷静になった彼女が言いました、「夫はクリスチャンだったの。その夫の希望を無視しちゃったの。でもあの時は私はこわかったの。お寺さんに従がうしかなかったの。」

怪しげな新興宗教団体だけでなく、仏教団体だって怪しげな団体があります。
死者の霊が成仏しないでさまよっているとか、さらには怨霊、悪霊であるとか言って、供養、法要を説き、また高価な仏具を売って多額の金銭をとります。

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2006.06.13

夫婦関係がいいと、親子関係もいい

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戦後は工業化が進み、人が流動化して、大家族という考えがなくなり、核家族と呼ばれる小家族が独立しました。
また戦前の上下関係が否定され、平等の概念が強くなりました。

その結果、個人はよく自己主張するようになりました。
しかし、古い日本の考えも残り、表はああでも裏はこうという複雑な心の状態であったと思います。

つまり、自己主張は、しっかりした経験知識に基づくものではありませんでした。

夫婦関係を見てみますと、夫の主張と妻の主張の食い違いが多くの面で生じました。
夫婦関係に関する祖父母の経験知識は、息子または娘夫婦にあまり影響を与えませんでした。
それは古い慣習を変えるために有効だったのですが、若い夫婦の無益な衝突の回避には役立ちませんでした。

現代、夫婦関係に関する知恵は、いまだに流動的であり、新時代への過渡期にあると思います。
したがって現代の夫婦関係は脆いという特徴をもっています。
夫も妻も、自己主張するも、不信と不安の中にあることが多いというのが現実です。

そのような夫婦関係のもとで、子は自己主張と不信と不安を学ぶでしょう。
健全な人間関係の知恵を学びません。
親子関係もおかしくなってしまうでしょう。

自己主張しているだけでは新時代にふさわしい夫婦関係の知恵は出てきません。
これまでの経験を反省し、その上で夫は妻のことを思い、妻は夫のことを思い、またどちらも子のことを思って望ましい夫婦関係の知恵を出し合うことが必要です。

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2006.06.10

危険な精神状態から脱出する方法

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破綻すると思うと政府は焦ってあれこれと企画実行し、次から次へと失敗して本当に破綻してしまいます。
倒産すると思うと会社は焦って場当たり的な対策を次から次へとやり、本当に倒産してしまいます。

政府や会社と同じで、人も駄目だと思うととんでもないことを考えてその後のことを考えるゆとりを失い、本当に人生を駄目にしてしまいます。

今生きている、明日も生きると思うことが思考の原点だと思います。
したがってもう駄目だと思うことは危険な精神状態だと思います。
このような時はやみくもに動かない方がいいと思います。
考えるのもやめた方がいいと思います。

まずは自分が静かに休むと、やがて自分が知らない何かが考えてくれて自分に道を示してくれるはずです。
自分ではない何かは自分が知らない経験と知識を持っていて自分を助けてくれるはずです。

精神の奥深いところには、黙々と働いている、自分が知らない何かが存在します。
私はそれを精神本体、さらには人の命と呼んでいます。
この人の命は、人が生きること、人を生かすことしか考えていません。
したがって、弱った自分にとって精神本体、人の命は最も力のある助けです。

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2006.06.04

譲って動くのも手

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世の中、人を動かすことが好きな人が結構多くいます。
動かされる方はあまり言い気持ちがしません。
人を動かそうとしないで自分が動いたらどうだと言い返したくなります。

しかしよく考えますと自分が動いた方がいい場合が数多くあります。
つまり自分が動いて解決するなら解決が早いし、問題を大きくしないですみます。
それから自分が動くことによって自分の経験知識が増すことが数多くあります。

対抗して、相手も動かず、解決が遅れ、問題が大きくなり、自分も相手も賢くならないなら、自分が動いた方が明らかに得です。

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2006.05.08

聖霊

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私は、20代前半、回心を経験し、キリスト教信者になりました。
以前の自分とはすっかり異なり、自由で行動的で忍耐強く、聖霊が働いていると感じました。
そして50代前半まで熱心なキリスト教信者でした。

しかし、キリスト教を信じていない人でも人を愛し、生き生きと生きている人が多いこと、キリスト教で説明できない現実が多いことなどに苦悩し、50代後半キリスト教を捨てました。

ところが今でも昔感じた聖霊が働いていることを感じています。
この不思議な力はいったい何でしょうか。

イエスはヨハネから水の洗礼を受けた後、聖霊が鳩のように天から自分に下るのを感じたとのことです。
本当は聖霊はイエスが生を受けたときから彼の中に存在していたのではないでしょうか。
洗礼を受け、神の使命を実感した時、彼はそれまで感じなかった聖霊を初めて感じたのではないでしょうか。
初めて感じたので、神は天に存在していると信じていた彼は、その時聖霊が神から自分に下ったと思ったのではないでしょうか。

私は、すべての人に聖霊は内在していると思っています。
それに気付いていない人が多いのではないでしょうか。
「自分は正しい」と思うような頑固な自我が崩れたとき、頑固な自我の裏に隠されていた聖霊を人は初めて感じることができるのではないでしょうか。

20代前半に経験した回心は、私にとって非常に貴重な経験であったと思います。
キリスト教信者の方々は、今私が感じている聖霊はキリスト教の聖霊ではないと言うでしょう。
しかし私は同じ霊ではないかと思っています。

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2006.04.20

日の丸を掲揚しても無法では逆効果

Hana11

上海総領事館の館員が買春したなど外交官の無法がよく報道されます。
掲揚した日の丸が汚れるような気がします。

政府は日の丸掲揚を重視しますが、日の丸を掲揚しても無法を行なう人がいることを知るべきです。
外に日の丸を掲揚するより、悪いことはしない、よいことをするとの決意の旗を心の中に掲揚した方がいいのではないでしょうか。

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2006.04.17

お金より人の命が大切と思うのだが

Hana9

私達は、タバコは悪いと言いながら、政府をしてタバコの製造販売を許可させ、タバコを買う人から高い税金を取っています。
お金のために人の命を軽視しています。

自分は吸わないからいいと思っているのかもしれません。
しかし喫煙者は煙を肺の中に入れっぱなしにしてくれる訳ではありません。
必ずはき出します。
喫煙者がはき出した煙を吸います。

それだけでありません。
喫煙者はよく吸殻をポイと捨て、それが火災の原因になることがしばしばです。
また喫煙の習慣を周りの人に広めます。

タバコだけではありません。
私達は、お金がないと生活できないと心配し、人の命を軽視するという矛盾をいろいろな場面で犯しています。

私達は愛国心を主張できるほど高い文化水準には達していないのではないでしょうか。

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2006.04.14

愛国心

Hana5

教育基本法改正案の関連で愛国心という言葉が問題になっています。

戦前愛国心という言葉のもとに無数の人々が戦争で殺されましたので、今日においても愛国心という言葉を嫌う人が多いと思います。

日の丸君が代と愛国心を結びつける人がいます。
しかし、日の丸君が代に関心が薄い人が、愛国心がないと言われたら、そんなことはないと怒るでしょう。
日の丸で言いますと、政府が人々に日の丸の掲揚を強要することはやりすぎです。
日本を表現する方法は日の丸だけではありません。

日本がもし外国を苦しめるならば外国は怒って日本を苦しめるでしょう。
アメリカがやっているように、外国の法律が不備であること、軍事力、経済力が弱いことなどに付け入り、国内なら不法になることを外国でやったり、軍事力、経済力で外国に圧力を加えることなどがあってはならないと思います。
つまり外国に対し差別的な国家主義が愛国心でないことは明白です。

政府の言うことに何でも従がうことは愛国心ではないと思います。
大赤字の放漫政治を続けている大臣に愛国心があると言えるでしょうか。
破綻しつつある政府を放置している国会議員の愛国心も疑問です。

政府は人々のためにあります。
したがって政府は人々を愛することが必要です。
人々の愛国心だけを強調してはいけないと思います。

自然と文化に恵まれた日本を愛していない人はいないでしょう。
日本の環境悪化を防いできたのは、環境悪化に苦しみながら必死に環境改善運動をやってきた人々です。
日本の文化を守ってきたのも、政府に文化の保護を訴えながら文化を大切にしてきた人々です。
愛国心を叫んでいる大臣や国会議員より現場の人々の方が愛国心に富んでいると思います。

日本人は国防意識が乏しいと主張する人がいます。
しかし、歴史から判断するならば、話し合い下手で短気で攻撃しやすいことの方が心配です。

愛国心とは、人々が末長く明るく生きることができる、よりよい国にすることと考えるといいと思います。

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2006.04.11

人の命重視の心が乱暴のブレーキ

Hana2

人から乱暴な言動を受けることは不愉快なことです。
不愉快な思いをするより無関係でいたい、あっさりした関係でいたいという思考が強くなっていると思います。
こうして人間関係が浅くなりつつあります。

問題はやはりおおもとの乱暴な言動です。

このような傾向が夫婦の間でも親子の間でも生じていますから、現代は夫婦関係も親子関係も不安定です。
嫌いが怒りになり、憎しみに発展します。

希薄な人間関係は人を孤独にします。
しばしば人を攻撃的にします。

しかしそれで人々がいいと思っていないことは明白です。

言動には社会的許容範囲がありますが、現代は許容範囲を越えることを肯定する雰囲気があります。
戦前の道徳的抑圧的雰囲気から解放され、戦後反動的に放漫な雰囲気になったからかもしれません。

商業的な新聞雑誌テレビは無批判に放縦を記事や番組に取り入れ、人間の低劣な感性に訴えて購読者や視聴者を増やしてきたと思います。
多くの購読者、視聴者がいて儲かることは、新聞雑誌テレビの内容の価値を証明しているとの印象を与えてきました。

人々は気付かない間に自分中心、金銭主義になり、他人を軽視し、つまり人間関係を軽視し、ついには人間関係に自信を失ってきました。

このような問題を少しでも減らすためには、社会の雰囲気を変える必要があります。

商業的な新聞雑誌テレビが先生では人生は危ういと思います。
学校を出てからも教えを請うべき先生とか先輩を持つことが重要ではないでしょうか。

人々は、ことわざなどの先人の知恵を見直すことが大切です。
日本のことわざだけでなく、世界のことわざも学び、自分もよく考えるならば、戦前の抑圧的雰囲気に戻ってしまうことはないでしょう。
宗教を信じるならご利益だけで満足することなく、人の道も学ぶべきです。
教育者や心理学者の方々は、学校で教えるだけでなく、社会に提言するようになるといいと思います。

乱暴な言動から自由になるためにはやはり人の命を重視する心が大切と思います。

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2006.03.30

死にたいと思ってもその思いを捨て生きるのが人生

Dandelion

いかなる理由があっても自殺は人殺しと同じ罪だと思います。
人の命(Human Life)の軽視の罪です。
日本は自殺が多いと言われていますが、自殺が人殺しと同じ罪であるとの認識が人々にないからだと思います。

日本では死者に鞭打つことはよくないとされています。
だからと言って、自殺の罪が自殺をもって赦された訳ではないと思います。
罪は罪です。
死んでしまった人の罪はその人がいないから問えないだけだと思います。

死んでお詫びする、家族の罪が恥ずかしいから死ぬ、死んで諌める、愛した人を追って死ぬ、生きる自信や望みがないから死ぬなど、どうも日本には死ぬことを考えやすい雰囲気があります。
有名な作家が自殺したりすると、それが何かいいことであったかのような評論が書かれたりします。
生きるという人生の目的意識が弱いと思います。

自殺は、悔い改めるとか、生きる自信や望みをもつようになる機会を自発的に捨てることになります。
自殺者はよくない自我の状態のまま死にます。
自分(自我)が人の命を処分できると思い上がったまま死にます。
思い上がっていますから彼らは自殺が周りの人々や他人に迷惑をかけることを考えません。

死にたいと思うような苦しい状態にあっても、その思いを捨て、生きたいと思って生きるのが人生だと思います。
生きているのに死にたいと思うなんて自分に甘すぎます。

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2006.03.27

思い込み

yukinosita

事実はAはBではないとします。
ところがAはBであると信じるとAはBになります。
AがBになるような思考回路が神経系に形成されるからです。

一度AはBであると信じると、よほどのことがないとAはBではないと気付かなくなります。
AはBであるとすると説明できないような現象が何回続いても疑問を持たないことがあります。
数十年たっても、悪くすると死ぬまでAはBであると思っていることがあります。

このような思い込みが自分に有利に働く場合もあると思います。
しかし不利に働く場合もあります。

非現実ですから実は不利に働くことの方が多いのではないでしょうか。
したがってやはりAはBではないことを知った方がいいと思います。

とは言え、知ることはむずかしいと思います。
精神の機能として備わっている知性を肯定し、その知性を使ってよく考えるしかないでしょう。
しかし信じたことを知性を使ってよく考えることはむずかしいことです。
否応なしに考えさせられるような出来事がないとよく考えることはできないかもしれません。

信じることは大切と思う反面、こわいこととも思います。

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2006.03.18

共通点を探そう

bf

個人は平等と言いますが、現実、平等と実感する人は少ないでしょう。
他人を見ればすぐ違いに気付いてしまいます。
個人差があります。
千差万別です。
これをいちいち論じていたら切りがありません。

とすると大事なことは共通点を探すことだと思います。
そしてこの共通点が大事だと思います。
共通点を見つけることができれば平等感を持つことが可能です。
例えばどんなに嫌いな相手も、食べるべきものは食べ、出すべきものは出すと思えば、多少相手のことを冷静に考えることができるかもしれません。

違いを気にしすぎると差別する心が強くなってしまう恐れがあります。
特に注意すべきは、思い上がること、または思い下がることだと思います。
どちらも人間関係を悪化させ、ひいては自分も不安になると思います。

私は人の命(Human Life)を人間の共通点として重視しています。
すべての人は、生きる、または生きているということにおいて共通です。
人の命を重視しますと、個人差はそれほど重要でなくなると思います。
上下意識を小さくすることが可能と思います。

それから人の命の重視を善、軽視を悪と考えると概して善悪の整理が容易になると思います。

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2006.03.12

うそはついてもつかれても不安

kinjoume

子供のとき、母が「うそをつくと閻魔様に舌を抜かれる」とよく言っていました。
やがて科学好きになった私は、閻魔様に疑問を持ち、この教えはうそであると思いました。
しかし私はうそをつくと不安に陥る性格になってしまいました。

昔の小学校高学年ではそろばんの授業がありました。
1+2+3+・・・+100はいくらという競争をよくやりました。
当時はそろばん塾に行っている人がいて、私は頑張っても個人的努力だけではどうしても一番になれませんでした。
それがくやしくて、とうとう、55+11+12+・・・+100とやってしまいました。
一番になれました。

ところがその後ものすごい不安に陥り、もう学校へ行きたくないと思いました。
苦しくてたまらず、うそはやめようと思いました。

その後、数多くの経験で、うそをついてもうそをつかれても私は不安に陥ることがわかりました。
つらいことでも真実を言ってもらった方が安心することがわかりました。

最近のお話をしましょう。

61歳のとき、私は、便秘と下血を心配し、病院に行きました。
そして大腸・直腸がんが原因であることを知りました。
内科医は、私を励ますかのように、がんの一歩手前と言いました。
外科医は、はっきりと、がんだ、転移している恐れがある、すぐ手術して除去すると言いました。
私は内科医の言葉に不安を感じ、外科医の言葉にむしろ安心を感じました。

この外科医は、私が退院したとき、肝か肺に転移する確率が高い、その時はその時でできるだけの治療はする、海外旅行に行ったりして人生を楽しむといいと言いました。
死ぬと言われている感じがしましたが、何故か私は動揺しませんでした。
外科医はうそをついていないと思ったからです。
うそを言われた方が私は不安になっていたでしょう。

「うそも方便」と言われますが、私はうそはない方がいいと思っています。
うそを手段とせず目的を達成する方法はないだろうかと考えるようにしています。

なお、真実と思って言い、結果的にうそをついたことになったことは無数でした。
うそをついたときはまだうそと気付いていませんから自信をもって言ったのですが、何かのおりにおかしいと気付いたとき不安に陥ってしまいます。
恥ずかしいし、人々に申し訳ないことをしたと思います。

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2006.03.07

愛の原型

rf

女性は妊娠するとお腹の中の子を大切にします。
産みの苦しみに耐えて赤ちゃんを産みます。
そして赤ちゃんを大事に育てます。
夫も妻に協力し、やがて父としての自覚が出、しっかりと子を育てます。

水に溺れている人を見ると自分が泳げないことを忘れて思わず助けようとして水に飛び込んでしまう人がいます。
誰かが駅のホームから線路に落ちたのを見ると、友人でも知人でもないのに、とっさにホームから飛び降り、落ちた人を助けようとする人がいます。
迫ってくる電車に引かれて自分が死んでしまうかもしれないのにです。

これらは愛の原型だと思います。
愛の純粋な形だと思います。

この愛は生命尊重の特徴を持っています。
精神の奥深いところにある精神本体の生きる力、生かす力からきていると思います。

私は精神本体を「人の命」(Human Life)と呼んでいます。
人の命から湧き上がってくる生きる力、生かす力が自我の深部に影響を与え、そこに愛という感情を形成するのではないでしょうか。

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2006.03.01

友情

yugawara
湯河原梅園

小学校からの友人がいます。
友人は体が大きい人でした。
私は小さかったので大小変な組合せでした。
いつも一緒に遊んでいました。

中学校の時は騎馬戦で彼が馬、私が騎手で不敗のコンビでした。
スウェーデン牧師の家に英語を勉強に行きましたが、彼と一緒に行きました。
ここでちょっと行動に違いがでてきました。

彼はキリスト教を嫌がって英語の勉強をやめてしまいました。
私は、キリスト教は変わっていると思いましたが、特に嫌いということはありませんでしたので彼よりは英語の勉強を続けました。

私は社会人になってまもなくキリスト教信者になり、彼にもキリスト教を説くようになりました。
彼は反対に心理学の本を送ってきて、キリスト教を否定しました。
それではそれぞれ自由に行こうということになり、友人との情報交換がとだえました。

それから長い年月がたち、50代になり、私がキリスト教の限界を感じ、やがてキリスト教から解放されたので、友人忘れがたく、彼に手紙を書きました。
昔はキリスト教を説きすぎた、赦してほしい、今は心理学も勉強している、自由の身になったからお付き合いしたいと書きました。

すると、彼から、私こそよろしく、私はキリスト教信者である、今は苦悩から解放され、教会活動をやっている、人々にキリスト教を説いていると書いた手紙が届き、キリスト教雑誌が同封されていました。
えっ、と思いました。

驚きながらも、お互いどうして思想が変わってしまったか情報交換し、友人に起こったこと、そして心の変化を知りました。
私は現在の思想を彼に説明しましたが、今度は彼の信仰を尊重しています。
彼も私の思想を尊重しています。
思想は千差万別だからです。
友人(の命)を愛することで十分だからです。

彼は私の体を心配していろいろと健康法を教えてくれます。
私はパソコンのプロではありませんが、彼はパソコンでトラブルと、すぐ私に電話をかけてきます。

友情は、子供のころからなんにも変わらないと思います。
友情は思想の違いでは消えません。

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2006.02.17

第一自我、第二自我、第三自我、・・・

今朝は同時に存在する複数の自我ではなく、時間軸上に存在する複数の自我について書いてみたいと思います。
なおここでいう自我とは私が感じる自我のことです。
私の自我のことです。

生まれたときの自我については記憶ゼロです。
3才の頃の自我についてもほとんど知りません。

ただし3才のときの記憶と思われれる映像が二つ三つあります。
反復思い出すことによって忘れなかったのだろうと思います。
これらの映像は私が見た、つまり自我が見たものです。

6才ぐらいの自我についてはかなり記憶が残っています。
それ以降のことはよく覚えていて自我がどのような状態であったか説明できます。

幼児期のことは推定にすぎませんが、20代前半まで自我は、学び、考え、行ないながら連続的に成長してきました。
そこでこの自我を第一自我と呼んでいます。

この自我で生きる限界に達し、苦悩し、20代前半で、それまで大切にしてきた自我が一気に崩壊し、新しい自我になったと感じました。
それまでの自分の考えを捨て、キリスト教を信じました。
そして再び学び、考え、行いながら連続的に成長してきました。
これを第二自我と呼んでいます。

50代半ば、キリスト教で生きる限界に達してしまいました。
キリスト教で現実を説明することができず、暗闇に入ってしまい、そしてある日明るさを見、それは「人の命」(Human Life)であるとの確信に達しました。

ここで私がいう「人の命」とは、数千万年、数億年、もしかすると数十億年の時間をかけて、人がウイルスのような状態から発達してきた人の精神本体のことです。
原始的精神、原精神、基本的精神と言ってもいいと思います。
私はこの精神本体上に数百万年かけて自我(ここでいう自我は後天的に形成される自我ではなく機能としての自我です)が発達してきたと考えています。

この確信に達すると約30年も信じてきたキリスト教が一気に崩れてしまいました。
今は「人の命」を重視しています。
そして人生とはこの「人の命」と自我の二人三脚と思っています。
明るく生きることができるだけでなく、現実を説明しやすくなりました。
これを第三自我と呼んでいます。

この第三自我が崩れる時がくるかどうか今はわかりません。
第四自我があるかどうかわかりません。

今は第三自我が再び学び、考え、行ないながら連続的に成長していると思っています。

以上は私の認識ですが、ほかの方々はどうでしょうか。
経験は様々でしょうが、古い自我が崩れ、新しい自我になるという経過を経て自我が変化しているのではないでしょうか。

子供の時から宗教を学んだ人は宗教を信じている状態が第一自我かもしれません。
私のように無宗教時代があって、その後宗教信者になった人は第二自我にあるかもしれません。
その後宗教が変わった人は第三自我にあるかもしれません。

いずれにせよ、自我は生まれてから死ぬまで連続的に変化するのではなく、いつかどこかで方向が180度変わるように変化するような気がします。
このような変化はキリスト教でいう回心という言葉で説明すると一番わかりやすいと思います。

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2006.02.14

宗教性半分、非宗教性半分

宗教を信じていると言う人ほど、宗教を信じていないように見えるときがあります。
宗教を信じていないと言う人ほど、宗教を信じているように見えるときがあります。
これはいったいどういうことでしょうか。

自我は宗教性半分、非宗教性半分ということではないでしょうか。

宗教信者は自分は宗教信者と思っているのですが、はたから見ると別に宗教信者に見えません。

まず言えることは宗教信者が無宗教者と一緒に生活しているからでしょう。
宗教信者だって生活、仕事、事業のこととなると無宗教者と変わりはありません。
科学も学問し、技術開発も行なっています。
いくら宗教の先生が執着するな、生活の心配をするなと教えても、執着し、生活の心配をします。
教えている先生だって執着し、生活の心配をします。

もし宗教信者が無宗教者の生き方を否定するなら宗教信者の社会を特別につくるしかありません。
そのような社会はあることはありますが、一般的ではありません。

親しいお付き合いは宗教信者同士を重視している人が多いかもしれませんが、職場では無宗教者と同じことをしています。
だから職場では誰が宗教信者かわからないことが多いでしょう。

それでは無宗教者はどうでしょうか。
彼らは自分は無宗教者と思っています。
ところが彼らのお話しを聞いてみますと、これといった既存宗教や新興宗教は信じていなくても、意外に宗教性を持っていることに驚きます。

これらのことから考えると、宗教性の本質は、既存宗教や新興宗教のそのまた奥にあるような誰でも持っている共通精神のように思えます。
非宗教性の本質も実は共通精神と思います。

人はみな同じですが、その人が自分は宗教信者と思うと宗教信者、無宗教者と思うと無宗教者になるだけではないでしょうか。

では、どうして自我は宗教性半分、非宗教性半分になるのでしょうか。

世界は自我から見ると自我の外側の世界と内側の世界があります。
自我は外側の世界と内側の世界にはさまれています。

その間にあって自我は両側の世界と調和しなければならなかったし、実際そうしてきました。
そうしないと人は生きることができないからです。

外側の世界は唯物的、非宗教的、内側の世界は唯心的、宗教的です。
つまり外側の世界と内側の世界に対し自我は界面活性剤のような働きをしているのではないでしょうか。
だから自我は誰でも宗教性半分、非宗教性半分になるのだと思います。

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2006.02.10

社会性

社会性とは、社会生活をするのに必要な人間の性質です。
具体的には親愛の情、仲間意識、共通意識、平等意識、尊重、同情、配慮、謙譲などです。

他人や社会のことを考えず自分のことしか考えないと人間関係悪化とか社会問題を引き起こします。

自分のことしか考えないと、違法をやらないまでも、行動基準が法律だけになりやすく、合法ならいいでしょうと言って自分の言いたいことを言い、やりたいことをやるようになります。
そして周りの人から嫌われます。
すると余計自分のことしか考えなくなり、ぎすぎすした人になります。

世界という大きな社会でも同様のことが観察されます。
地球が小さくなり世界の人々が協力して生きる時代です。
今一度社会性についてよく考えてみるべきです。

もし争いが生じたならばその原因を知ることが第一です。
どちらかに、または双方に社会性がないことが原因であることが多いと思います。

自分の考えがいいと思っても性急に相手に押し付けてはいけません。
もしかすると自分の考えの方が悪いかもしれません。

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2006.02.08

正座と坐禅

昔は正座が行儀作法でしたから、私は子供の頃しょっちゅうつらい思いをしていました。
たとえば食事も正座でしたから本当に参りました。
足または関節の構造に問題があって正座をするとすぐ足が痛くなったからです。

特につらかったのは、悪いことをしてその度に父から長時間叱られたことです。
お説教より、畳の上に長時間正座させられたことが厳しい罰でした。

法事も正座でしたからお坊さんの読経も父のお説教と同じぐらいつらいものでした。

子供の頃は坐禅(座禅)とは正座と思っていました。
坐禅という修行は難行苦行と想像していました。
ですからその修行を終えたお坊さんはすごいと思っていました。

あるときある禅宗の総本山に行きました。
そこで初めて坐禅の形と坐禅用の座布団を知ったとき、何だ、何だ、お坊さんはずいぶんずるをしていると思いました。

この禅寺で坐禅とは難行苦行ではないことを学びました。
そうだったのかと思いましたが、その時はちょっとがっかりしました。
修行とは難行苦行であるという思い込みがあったのでしょう。

私は坐禅の習慣はありませんが、安定した姿勢で瞑想することが好きです。
仰向けに平らに寝る、背を垂直にして胡坐(あぐら)をかく、背を垂直にして椅子に座る(腰掛ける)などの姿勢です。
手足の形、静止、動きは別に気にしません。
ゆっくりと静かに呼吸しながらよく瞑想にふけります。
何か心も体もとてもゆったりとし、落ち着き、すべてが均質になったような感じがします。
大自然の中にいるときは大自然と一体になったような気持ちになります。

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2006.02.06

生き生き生きる

世界では無宗教者と宗教信者は、非常に大雑把ですが、半々ぐらいでしょうか。
無宗教者が増えているというお話しをときどき聞きます。
ヒューマニズムと科学の発達の影響でしょう。

なお無宗教者と言っても、何かが自分を生かしていると感じている人は多いでしょう。
一方、宗教信者でも信仰が小さい人は多いでしょう。

無宗教者も宗教信者もだいたいまじめに生きています。
どっちが特にいいとも悪いとも言えません。
無宗教者は無宗教がいいと思っていますし、宗教信者は宗教がいいと思っています。

私は、長い間宗教がいいと思っていましたが、今は宗教より人の命(Human Life)を重視しています。
人の命を信じていると言っていい状態です。

人の命を軽視するなら無宗教も宗教もいけないと思っています。
いかなる宗教を持とうと、あるいは自分は無宗教と思おうと、人生、生き生き生きることが大切と思っています。
人や自分の命を軽視するような生き方は悪いと思っています。

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2006.02.04

けなげな子供

koala
横浜の金沢動物園 コアラ

娘からSOSが入ってインフルエンザにかかった5才の孫の世話をするため昨日朝車で2時間ほどかけて娘の家に行ってきました。

玄関に入ると孫がマスクをして階段の途中にいました。
私を待っていたのでしょう。
マスクをしていたのは母親から、おじいちゃんにインフルエンザをうつすといけないからマスクをしていなさいと言われたからでしょう。
自分の部屋に戻るように言うと、素直に2階の自分の部屋に帰りました。

9時30分ごろ私が孫の部屋のドアを開けると、「インフルエンザがうつるから部屋に入っちゃ駄目」と言いました。
そして「お昼になったら(母親が用意した)ご飯を食べるから教えて」と言いました。

5才の子供が本当にお昼まで部屋の中で一人で我慢できるかなと思いました。
ところが驚いたことに何事もなく時間がたち11時ごろになりました。
5才ともなると忍耐力があるなあと感心していましたら、突然2階で孫が大きな声を出しました。

急いで2階に上がり、ドアを細めに開けて、「大きな声を出してどうした」と聞くと、また「部屋に入っちゃ駄目」と言いました。
私がちゃんと下にいるか確認したのでしょう。
それから12時まで何とか孫は静かにしていました。

午後になりますと、さすがに一人で静かにしていることができなくなったようで、自分の部屋にある電話機の内線を使って下にいる私に電話をかけてきました。

その時の言い方が傑作でした。
「おじいちゃん、もう帰る?」
帰らないと言うと、しばらく安心して静かにしているのですが、すぐ電話をかけてきて「おじいちゃん、もう帰る?」と聞いてきました。

次第に電話の頻度が上がってきました。
限界だなと思って孫の部屋に行くと、今度は「部屋に入っちゃ駄目」と言いませんでした。

おじいちゃんと一緒にいたいのに、長い間一生懸命母親の指示を守って、部屋で一人頑張った孫を見て、子供はけなげだなと思いました。

ところで私にインフルエンザがうつったかどうかは今朝の時点ではわかりません。
天気は快晴、体調は順調です。

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2006.02.02

「理解できない」

zoo2
横浜の金沢動物園 動物はバーラルといい、ウシ科です。中国のスーチョワン、シェンシーなどの山岳地帯に分布しているそうです。岩から岩へ飛び移り、鹿のように非常に身軽です。

自分の言動に対する批判に対して「理解できない」と言って片付けることがあります。

経験知識が乏しいから理解できないのかもしれません。
現実や事実を知りたくないという気持ちが働いているかもしれません。
または自分は正しいという思いを必死に守っているのかもしれません。

実は理解できるのだが、「理解できる」と言うと、それならなぜそのようなことを言ったりやったりするのかと突っ込まれるので、わざと「理解できない」と言っているのかもしれません。
人はよく自分中心で言ったり行なったりしますから、真実を言えないことがあるでしょう。

いずれにしてもこのような言い方をされていると、批判者は最後は相手を無視するようになってしまいます。

「理解できない」なら理解できるまで待つ心の大きさが必要です。
心が小さいと批判者まで否定してしまうことが多いと思います。 

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2006.01.23

犬を可愛がっていた女性

雪におおわれた大地を見て一人の女性が言いました。
「ケンちゃん、雪の下で寒そう。」(ケンは犬の名前)

犬は数年前に亡くなって遺骨が埋葬されました。

続けて女性は言いました。
「でも雪の下にはいないわね。私の心の中に思い出として生きているから。私の心は暖かいから、ケンちゃん、寒くはないわね。」

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2006.01.19

他人の非を責めても自分の非が許されることはない

ある利用無料のボランティアサロンでボランティアしか使えない机と椅子をボランティアではない青年グループが使っていて管理責任者から注意されました。
するとその中の一人の青年が、規則違反をやっている人ならほかにもいる、なぜ私達だけが注意されたのか、ほかの人が規則違反していないか調べたかと管理責任者に食いさがりました。

そう言われるとそのとおりという面があったようで管理責任者は途方にくれ、とうとう青年と一緒に各机を回って利用者がボランティアかどうか聞くことにしました。

しかし最初の机で青年は一人のボランティアから厳しく叱られました。
同じようにみんなから叱られるのはたまらないと思ったのでしょう、青年は聞いて回ることをやめました。

仮に規則違反者がほかにいたとしても、そして管理責任者の不公平を証明できたとしても、自分の違反は違反です。

他人のことはさておき、まず自分の非を認め、自分を正すことができないようでは社会性があるとは言えません。
あっちで注意され、こっちで叱られます。
社会の中で楽しく生きることはむずかしいでしょう。

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2006.01.09

生きることは食べること

成人になられた方々にお祝いを申し上げます。

さて普通1日3回食べます。
食事以外のことは食事の合間にやっている感じです。
よく考えると仕事だって食べるためにやっています。

生活のことを寝食と言います。
しかし寝食を比較すると、寝る方は、眠くなれば1日1回寝るだけですみますが、食べる方は3回も食べ物を用意し、それから食べなければなりません。
これはなかなか大変なことです。

戦中戦後の子供時代、私は栄養失調で病気ばかりしていました。
会社に入って給料をもらって十分食べることができるようになったとき、正直、命が助かったと思いました。
月給2万円ちょっとのとき、月に1回1,000円のキングステーキを食べて、無上の喜びを感じたことを覚えています。

親は貧乏でしたが、食事は朝晩家族で一緒にとっていました。
粗食でしたが楽しいひとときでした。
ですから、結婚し、家族ができてからは家族一緒に食べることを大切にしました。

現代人は家族で食事をすることがむずかしくなっています。
できるだけ一緒に食べないと家族の関係が希薄になるのではないでしょうか。
家族で一緒に食べることを大切にしない親や子供が増えていないか心配です。
食事の時は最高の情報交換の時でもあります。

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2006.01.07

時には群れから出る

枝に残った柿が少なくなった晩秋のことです。
残った柿にいろいろな鳥が群がります。

一つの柿をついばむのは通常一羽の鳥です。
柿が足りませんのでよく喧嘩が生じます。
ついばんでいる鳥に飛びかかって追い払い、ついばむ鳥もいます。
飛びかかってくる鳥を追い返し、ついばみ続ける鳥もいます。

よく観察すると柿に鳥が来ていない時間の方が長いようです。
群がらないで来れば自分だけで落ち着いて柿を食べることができるのにどうして鳥は群がるのでしょうか。

生きるとか子孫を残すには群がっていた方がいいのでしょう。
限られた餌を争うことになっても群がっていた方がいいのでしょう。

人間も群がる傾向を持っています。
群がって他人と同じことをやっていると、せわしいし、争いがあるし、不必要なことをやってしまいます。

しかし人間は自我が発達し、自我には感性知性があり、よく考えることができます。
時には群れから出て、落ち着いて考える時間を持つことができます。

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2005.12.26

人命を軽視すると生活できない

maioka-huyu
横浜の舞岡公園 沼地に木が生えていますが、今は沼地が干上がっています。

危険な建物の建設に関係してしまった元一級建築士が、「仕事がなくなると生活できない」と思ったと言いました。

改めて失業の恐怖はすごいと思いました。
失業すると、生活できないという恐怖に直結しやすいことがわかります。

罪を犯した元一級建築士は、仕事が減る不安をばねにして新しい顧客を開拓すればよかったのですが、自分の営業能力に自信を失っていたのでしょうか。
反社会的な顧客との関係だけで仕事を続けることを考えてしまったようです。

「仕事がなくなると生活できない」ではなく、「人命を軽視すると生活できない」という単純な知識を持っていたら頑張って新しい顧客を開拓したかもしれせん。
人命に関する価値観がいい加減であったことが致命的であったと思います。

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2005.12.09

絶交する、しない

maiokakoenpond
舞岡公園(横浜) 緑多き公園です。山の上の鉄塔がちょっと残念です。

昔あるキリスト教団体に所属していました。
師は非常に実行力のある人で、弟子を引きずり上げるような指導力を発揮しました。
しかし師は、弟子と意見が合わないと、すぐ絶交すると言いました。
師の態度は、みぎひだりの判断がはっきりしていて小気味がいいと思っていました。

やがて私は師とよく話し合うような立場になりました。
そしてある日とうとう意見がぶつかってしまいました。
すると師は例のごとく絶交すると言いました。
私も師のやり方に慣れてしまっていたので、「わかりました」と言って、きれいさっぱり団体を去りました。

団体を去ってからも私は師のやり方を踏襲していて、意見が合わないとすぐ人と絶交する傾向を持っていました。

そのうちにこのやり方がどうも不毛であることに気付いてきました。

私が言っていることは本当に正しいだろうか。
自分が信じている宗教は絶対だろうか。
意見が合わないぐらいで一々絶交していて問題解決になるのだろうか。

師は自分の信仰を絶対とし、思考停止に陥り、弟子との意見交換を拒絶していたのではないか。
私も師と同じ思考停止に陥ったのではないか。

あるとき、絶交すると言って、私の人生に非常に大きな影響を与えた先輩を失ってしまいました。
私はとうとう限界に来てしまいました。
自我とともに信仰まで崩れてしまいました。

そしてその後、何か狭い空間からやっと外に出ることができたような解放感とか自由を感じました。
すぐ絶交すると言ってしまう習慣はすっかり消えました。

この自我の変化のおかげで今は大いに国際交流を楽しむことができるようになりました。
思想に違いがあっても、絶交せず、かと言って妥協もせず、その違いを乗り越えて話し合いを続けることができるようになりました。

人(の自我または思考)は千差万別、同じであることを求めたら人間関係は一つも成立しません。

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2005.12.07

罪と罰は対

hakonekowakidani
箱根小涌谷

私は仏罰とか神罰を信じていません。
しかし小さい時からよく馬鹿をやっては叱られたり、怪我をしたり、長く寝込んだりしましたので、母からよく言われた天罰覿面(てきめん)という言葉が頭から離れません。

それでも懲りないもので大きくなってからも馬鹿をやってしまったことが何度もあります。
やはり私は許容範囲が狭くてすぐ罰を受けました。

このような経験から罪と罰は対という思いを深くしています。
生きている間に罰を受けない人がいるという人がいますが、間違っていると思います。

罪はばれなければ罰されないと思うのは甘いと思います。
逮捕されなければ罰されないと思うのも現実を知らなさすぎます。
罪を犯しても戦争や裁判に勝てば罰されないと思うのも考えが浅いと思います。

罪はまず心から自由を奪います。
すると何事においても言動が不自由になります。
人や社会から罰されなくても自分で自分を罰するという現象が生じます。
その上、早晩、人や社会からも罰されることが多いと思います。

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2005.12.05

明日も生きる

今を生きよとか、今日を生きよという教えがあります。
明日のことはわからないから今日一生懸命生きよと教えているのでしょう。
昨日は今日につながり、今日は明日につながるから今日を生きることは明日も生きることになると教えているのでしょう。

でもちょっと消極的です。
自我に未来を考える機能があることを軽視していると思います。

今の生き方がいいか悪いかどうやって判断すればいいでしょうか。
誰でも犯罪とわかる犯罪で人生を棒に振る人は跡を絶ちません。
よりよい生き方を追求せず、今日も昨日と同じように生きている人は無数です。
今日を生きよと教えている先生ですら過去の慣習に生きている人が多いと思います。

未来のことを考えないからではないでしょうか。
予測しないからではないでしょうか。

予測に批判的な人は予測しても当らないと言います。
これでは今日行なう計画、準備、予習などに力が入らないでしょう。

明日も生きる。
この考え方の方が積極的で健全です。
明日があると思えば今日行なう計画、準備、予習などが楽しくなるでしょう。

仮に明日死ぬとしても明日に希望をもって生きた方が明るいと思います。
いつ死んでも、死ぬまで明るく生き生きと生きた方が、死ぬとき、生きてよかったと思うと思います。

でも、未来と言っても、死後も生きるというのは未来すぎます。
誰も死後のことなど知りません。
知らない人の言うことなど信じて死後の生活を夢見るのは空想的すぎます。

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2005.12.03

複数の自我

sasanqua2

私の中に複数の自我があって、時と場合によって働く自我が異なることをときどき感じます。
私の中で異なる自我が話し合うこともあります。
このような感覚をお持ちの方は多いでしょう。

この複数の自我の存在は、情況に応じて自我が変わることを意味しており、自我の弾力性と言えます。

しかし何かあると否定的消極的な自我に変わりやすい場合は生きにくくなります。
また他人の前で自我がよく変わりますと信用を落とし、やはり生きにくくなります。

現在支配的な自我に苦悩している人は自我を変え、安定させたいと願います。
そこで学問したり、修行したり、信仰を求めたり、精神科医療を受けたりします。

しかし、これらの方法で一見自我が安定したと思えても、他人に批判されたりすると、突然、自我が不安定になることがあります。
また安定してもたとえば冷たい自我では依然として生きにくいでしょう。

つまり健全な自我で安定することが大切であることは明白です。
これが難問です。

現代は健全を堅苦しいと考えたり、価値観の多様性を重視するあまり、健全な自我という問題意識が弱くなっている感じがします。
そして不健全な自我を問題にしながら大切にするという変なことをやっていると思います。
つまり決心しない自我があります。

成功の法則とか超能力を強調した新興宗教が人気がありますが、どうも人間性とか社会性を欠く場合が多いようです。
折も折、政府は昔の道徳や宗教を復活させたいと思っているようですがどうも復古調の度が過ぎます。

私は人の命(Human Life)を重視し、さらには信じることによって健全な自我の形成ができるのではないかと思っています。
そう思って今は生きています。

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2005.12.01

自我は未完成だが必要

nerine
ネリネまたの名はダイヤモンドリリー

よく自我(エゴ)を悪いものと考える人がいます。
しかし自我は必要なものであって、自我が発達したから人類は生きていると思います。

動物的な原始的精神(精神本体)だけでは人類は滅びる確率が高かったと思います。
幸い精神本体上に自我が発達して自我が情報を集めて生きる方法を考えるようになったから人類は飛躍的に滅びる確率を下げたのではないでしょうか。

つまり自我は精神本体のやりすぎを押さえ、その不備を補っていると考えます。
精神本体と自我は対をなしていると思います。
自我の重要な機能は情報を集めて生きる方法を考えることだと思います。

したがって、自我が精神本体と対立しているように見える面があることは決して不自然なことではないと思います。
逆に自我が正常に作動している証拠だと思います。
自我が精神本体に従順すぎたら精神本体の動物性が強調され、人類の滅亡は加速したでしょう。

しかし自我は発達したと言っても未完成で、いろいろな問題点を持っています。
神経系に欠陥がありますと、精神本体からの信号や外からの信号に対し釣合いのとれた情報処理ができない場合があります。
また神経系に異常がなくても、育った環境などが原因で誤った習慣や知識を蓄積すると、普通の環境で自我が正常に作動しなくなる場合があります。
すると精神本体を制御し補充するどころか、暴走する場合があります。

自我の不完全性が実生活の中で結構目立ちますので自我を悪者扱いする人が多いのではないでしょうか。

自動車で言えば精神本体はエンジン、自我は運転手のような役割を分担していると思います。
運転が悪ければ自動車は危険なものになるでしょう。
人生とは精神本体と自我の二人三脚です。

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2005.11.29

自我を捨てる?

ある年配の非常に有名な人が若者達と人生について対談したテレビ番組がありました。
若者達の考えに興味がありましたので見ました。

ある若者が、「よい自我が大切だと思います」と発言しました。
すると年配の人が急に声を荒らげて「そんなことを言っているから駄目なんだ。自我なんて捨ててしまえ」と言いました。
若者はまじめに発言したのに年配の人はどうして興奮したのでしょうか。

年配の人は自分は先輩だとか、若者に教えてやると言った気持ちを持っていたのではないでしょうか。
だから若者の発言を聞いて生意気なと思ったのではないでしょうか。
いずれにせよ、この年配の人の突然の「自我なんか捨ててしまえ」発言に驚きました。

自我を捨てたと思っている人は多いが、本当に自我を捨てた人はいるでしょうか。
自我を捨てた人がどのような生き方をするか想像してみてください。
人間らしく生きることは不可能でしょう。

「よい自我が大切だと思います」と発言した若者がよい自我を持っていたかどうかはわかりません。
またよい自我とは何かという問題はむずかしいと思います。

しかし若者の発言は正しいと思います。
私はよい自我が大切と思っています。
そして興奮して「自我なんて捨ててしまえ」と若者に言った年配の人の自我は問題があるなと思いました。

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2005.11.25

どうして自分で自分を駄目にするのか

kiku1

一級建築士が、耐震性なき建物を偽装設計する。
大地震が来て人が死んだらどうするのでしょうか。
有罪となり資格を剥奪され、二度と資格を生かせないでしょう。
容易に自分の将来を予想できる罪をどうしてするのでしょうか。
注目されたい、儲けたい、受注を増やしたいといった願望だけでは理解できません。

一般論ですが、反社会的な行動の背景には自分自身や社会に対する潜在的恨みがある場合が多いと思います。
恨みの原因は育った環境にあるかもしれません。
何らかの苦悩がほかの悪い条件と重なって自分自身や社会に対する恨みに変質するのかもしれません。

この場合、他人の命の軽視は重大な問題と認識していないでしょう。
自分の命すら軽視しているでしょう。
恨みが良心を蔵に閉じ込めてしまうのでしょう。
一度心に根付いた否定的感情は取り除くことが容易ではありません。

ときどき「自分は人の命を大切にしているか」と自分自身に問いかけるといいと思います。
何か適当な理由をつけて、誰々は死んでもいいとか、殺したいとか、自殺したいと思うなら、理由が何であれ人の命を軽視している証拠です。
自分は危ないと判断すべきです。
人の命を重視しているかどうか自分の心を確認することは、蔵に閉じ込めた良心を取り出すのに有効と思います。

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2005.11.03

必要なものは意外に少ない

hakone-koyo

今日は文化の日です。
たとえば文化の日にちなんで政府も人々もいっぱい無駄なことをやるでしょう。
それで財政赤字、家計赤字ではちょっと問題です。

私は概して人のやることはやりません。
やる必要があると思ったことしかやらないからです。
捨てた慣習は無数です。

捨てたと他人に言うと他人は私を非常識と非難するかもしれません。
そこで他人に言いません。
すると他人は、私のしたことに無関心でして、誰も私が慣習を捨てたことに気付きません。

実は、世の中、今は慣習の風化が起こっています。
心の中ではやりたくないと思っているのに慣習だからと思ってやっている人はまだ多いでしょう。
そんな中途半端な自分のことで頭がいっぱいだから、彼らは他人のことまで考えません。

慣習については本当によい慣習が残ればそれで十分です。
人の命のために役立つ慣習、これが本当の慣習でしょう。

誰かの商売に役立つ慣習などを大切な慣習と思い込んだらおかねがどんどん出て行くでしょう。
必要がないと思ったら勇気を出して捨てるようにすると意外に収支は黒字になるものです。

つまり生きるのに本当に必要なものは意外に少ないというのが私の65年の人生の感想です。

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2005.11.01

成功物語は死んでから書いた方がいい

niwa

死んでしまったら書けないではないかと思うでしょう。

昔ある人が事業に成功して大金持ちになり、成功物語を書きました。
大勢の人がその本を読んで感動しました。
みんな、私にもできるという気持ちになりました。

ところがその人はその後事業不振で、とうとう借金取りに追い回されるようになりました。
あまりにも借金が多く、金貸しに振り回されて、最早自主性を発揮することができず、煮るなり焼くなり勝手にしてくれといった状態です。

本に書いてあるとおり再起するならすごいということになりますがむずかしいかもしれません。

いずれにせよ、人生は波です。
成功裏に死ぬか、失敗裏に死ぬか、誰もわかりません。
だから成功物語は死んでから書いた方がいいのではないでしょうか。

つまり、もし誰か奇特な人がいて成功物語を書いてくれるならそれはそれで結構と思うぐらいがいいと思います。

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2005.10.19

「人の命」と一緒だから淋しくない

hana2

最近の日本の雰囲気を見るとどこか異様なものを感じます。
大半の人があっちに行くようになったら、あっちこっちせず、こっちに行った方がいいことが多いと思います。
群れて生きるのは不自由なことが多いし、人に合わせて無益有害なことをやることが多いからです。

しかしこっちに行くと一人しかいない場合があります。
一人っきりはやはり淋しいものです。
こういうときは「人の命」(Human Life)を感じながら行くとそれほど淋しくありません。
「人の命」は、日本語ではありませんが、感性が感じることができる信号を出しています。

ところで「人の命」を実体として感じることはむずかしいかもしれません。
私達は精神の外を見る習慣を持ったからです。
そこで「人の命」についてちょっと説明します。

人がウイルスのような状態であった時から数十億年(?)の気が遠くなるような時間をかけて精神が発達してきたことは何人も否定しないでしょう。
数百万年前から発達してきたと考えられる自我と区別して、私はこの精神を精神本体と呼び、さらに、これこそ人の命と思ったので、私は、精神本体を「人の命」と呼んでいます。

私達は宇宙を見ますが、地球の中は見ません。
地球の中で知っているのは地殻の表面部程度です。
しかし地殻は卵の殻のように薄いものです。
つまり私達は地球本体を知っていません。

同じように、私達は精神の外を見ますが、精神の中を見ません。
精神の中で知っているのは自我程度です。
しかし自我は精神の表層部にすぎません。
その下に厚い精神本体が隠されています。

精神本体については精神科学者もまだ説明できません。
100年後に説明できるようになるかどうかもわかりません。

でもちょっと考えてみてください。
この精神本体は無用の長物でしょうか。
実は人が生きる力ではないでしょうか。

もし精神の中に関心を持ち、心静かにその奥底をのぞくなら、そこに精神本体である「人の命」が脈動しているのを感じることができるでしょう。

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2005.09.29

shureigiku
シュウメイギク

霊を見たり、霊の声を聞くという経験は、私の場合は子供のときが多かったような気がします。
学校の先生などから迷信が原因だと教えられても、なかなか心の働きにすぎないとは思えませんでした。

ところが小学校高学年ぐらいから何故か理科の先生に愛されるようになって理科の知識が増すにしたがって現象を科学的に考える習慣が次第に身につき、見えたり、声が聞こえたりする霊はうそと思うようになりました。
すると面白いもので、霊を見たり、霊の声を聞くことがどんどん減りました。

現在は高年ですが、まったく経験しません。
としと共に感性が鈍ったせいかもしれませんが、霊は見えないとか、霊の声は聞こえないという思いの影響が大きいように思います。

テレビなどで霊能者がもてはやされていますので、霊を見たり、霊の声を聞いたりすることは特別の能力と思いがちですがそのようなことはないと思います。
霊を見たりしなくても明るく生き生きと生きている人は無数にいます。
恐らく霊を見たりしない人の方が多いのではないでしょうか。

ところで、霊を見た、霊の声を聞いたと言う人の中には、恐れおののいたり、変なことを言って他人を苦しめる人がいます。
霊は見える、霊の声は聞こえると信じてもいいのですが、自分や他人を苦しめたり、誤って導いたりしないように注意する必要があります。

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2005.08.26

独立と自由

himehimawari

子は通常20才前後で親から独立し、自由に生きます。

ところがキリスト教、イスラム教などの神の信者は、神から独立したくない、自由になりたくないという感じです。
折角独立して自由に生きることができるのにどうしたのでしょうか。
自分で考えて生きると罪を犯すと恐れているのでしょうか。

確かに自分で考えて生きると罪を犯す場合もあります。
しかし犯さない場合もあります。

神の信者でなくても、罪に苦悩することなく、明るく楽しく生き生きと生きている人は無数にいます。
戦争、テロなど最近の神の信者の行動を見ると、神の信者の方がはるかに問題ではないかとの印象を受けます。

歴史を見ると、近世、人類は神を捨て、ヒューマニズムをとってきました。
神を捨ててきた理由は、神の信者であると、不自由で、暗い因習に苦しんだからではないでしょうか。
自由な発想をすることができず、種々の問題を解決できなかったからではないでしょうか。

ヒューマニズムでもいろいろな問題が発生しますが、だからと言って、人類は神をとる方向には行かないのではないでしょうか。
今一見神の信者が増える方向のように見えますが、長い目で見れば波を打ちながら神の信者は減っていくのではないかと思います。

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2005.08.16

信者は心が大きい?

sotetu

宗教がきっかけになって性格や思考が変わった人は多いと思います。
つまり宗教には性格や思考を変える効果があります。

別に宗教だけが性格などを変える効果を持っている訳ではありません。
しかし自分の性格などに悩んでいた人は、性格などが変わったということは感動的なことです。
無条件できっかけになった宗教を信じやすいものです。
その宗教は真実であるとか、絶対であると思いやすいものです。

その思い込みがよいことばかりかというと、そうでもありません。
その人の人生に何らかの悪影響を与えることがあります。

信者は、実はその宗教を信じ、思考の自由を失います。
したがって、できたのにやらなかったとか、やった方がよかったのにやらなかったとか、やらなくてよいのにやったというようなことが起こります。

宗教熱心ですから周りの人々に布教します。
もちろん布教されても迷惑と思わない人はいます。
しかし多くの人々が迷惑と感じます。
繰り返し繰り返しその宗教を信ぜよと聞かされたりします。
いらないと言うのにしつこく宗教雑誌を送られたりします。

宗教がきっかけになって悪い性格などがよい方向に変わることはよいことです。
問題はどうすればその宗教の本質を知ることができるかということです。
宗教の持つ方便性を知ることができるかということです。

性格などが変わったのだからそれでいい、宗教の本質などは知る必要はないと思うかもしれません。
しかし信者といえども宗教の本質は勉強した方がいいと思います。

信者は、人によって信じる宗教が異なること、無宗教の人もいることがわかると、もうちょっと大きい心で他宗教信者や未信者に接することができるのではないでしょうか。

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2005.08.10

神の本質

hana1

神が目に見えるものであれ、見えないものであれ、神を信じ、神に主体性があると感じる状態が信仰心だと思います。
自分は神に動かされていると感じますから信者は、自我は作動していないと思います。

それでは神に動かされていると感じる主体は何でしょうか。
これは明らかに自我です。
本当に無我であれば、神に動かされているとは感じません。
したがって神を信じると言う人は自我が作動しています。

次に神とは何か、神は何をせよと教えているかと信者にきくと、信者の答えは千差万別です。
もし神が一つとすると、神は信者ごとに姿を変え、教えを変えるということになります。

そうではないとすると、信者ごとに別々の神がいることになります。

この問題を説明するのは至って簡単です。
信者は反対しますが、信者が想像する神が神であると考えれば解決できます。

自我は、神を想像し、その神が自分とは別に存在すると思い、その神に主体性を置くことができるという特技を持っています。
信仰の歴史は非常に長いものです。
人類は信仰の効果を経験してきました。
長い信仰の歴史の中で人類はこの特技を身につけたと思います。

神を信じると、力を感じます。
心が安定します。
決断が早くなります。
実行力が大きくなります。

したがって教えが悪い神を信じるととんでもない悪人になります。
この現象は神の本質をよく説明していると思います。

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2005.07.29

一人でいるのが向いている

hana1

人間には組織の長に向いている人と、長の下で働くのが向いている人と、どちらにも向いていず、一人でいるのが向いている人がいます。

私はたまたまある会社の技術開発管理部門で、ある分野を一人で担当する仕事についてしまったため35過ぎまで一人で仕事をしました。
もちろん上司はいましたが、上司は仕事を私に任せましたので、私は自由に仕事をすることができました。
したがって私は一人でいるのが向いていると思いました。

35を過ぎますと、新事業を企画実行する仕事を命令されました。
一人で企画して新事業を始めました。
少しずつメンバーを増やして組織化しました。
知らない間に組織の長になっていました。
したがって私は組織の長にも向いていると思いました。

そのうちに別の組織から呼ばれて別の組織の長に協力するような仕事も増えてきました。
すると長の下で働くことにも向いていると思いました。

そうこうしているうちにある時社長室に呼ばれて、社長から、お前は私に全然相談しない、自分勝手に仕事をやっている、私はお前にとって何なんだとものすごい声で怒鳴られました。
私は、ただ「もちろん社長です」と言いました。
すると社長が、「それならいい」と言いました。

私の方は、それならよくなかったので(社長に従がう気がなかったので)まもなく辞表を提出し、後任に引継ぎを行なって退職しました。
そのときつくづく自分は長に向いていない、長の下で働くのに向いていないと思いました。

その後、今日まで過去の経験知識を生かして個人業の形で会社から相談を受け、その会社の事業や仕事に協力する仕事をやってきました。
自分が独立しているのが楽しくて、個人業が嫌だと思ったことは一度もありません。
やはり私は一人でいるのが向いていると思います。

このような性格なので、人を上にするとか(人の下になるとか)、人の上になって、人を下にするなどという考えは嫌いです。
私は私であるという考えが好きです。

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2005.07.10

死者の霊

050710

死者の霊を信じるか信じないかで人の行動は大きく異なります。
信じる人は、葬式、墓、寺・神社・教会の参拝や礼拝を重視する傾向があります。
信じない人は、反対に軽視する傾向があります。
信じる人、信じない人は半々ぐらいではないでしょうか。

信じる人でも、本当に死者の霊を感じる人はどれぐらいでしょうか。
意外に感じる人は少ないのではないかと思います。
信じない人は、死者の霊を感じないことを重視しているのでしょう。

私も死者の霊を感じませんので信じていません。
夢の中で現れた程度では死者の霊が存在するとは言えません。

すでに両親は亡くなりましたが、記憶している両親を大切にしています。
いやな思い出もありますが、概して私はよい思い出を大切にする方です。
両親を思い出して話しかけることもあります。
思い出した時、その場所で話しかけます。

ときどき死者の霊や死者の記憶に苦しむ人のお話しを聞きます。
自分が悪いことをしたと思うなら悔い改めた方がいいと思います。
悔い改めない限り、苦しみが続くでしょう。

死者の霊を信じている人は信じていてもいいと思います。
但し、死者の霊はこの世のすべての悪や不自由から解放されて平安な状態にあると思った方がいいと思います。
また、死者の霊を信じない人を否定してはいけないと思います。
信じない生き方もあるからです。

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2005.05.29

大きな権限が与えられている自我

kesi

神について説明できる人は少ないと思いますが、神(の存在)を感じている人は多いと思います。
ところで感じる人とは自我です。
そこで自我が感じる神と自我の関係を考えてみます。

いい話題ではありませんが、日本は自殺が多いので自殺で考えてみましょう。
自殺は、自我が考え、決心し、実行します。

どうして神は自殺を阻止しないのでしょうか。
まるで神は自殺を認めているかのようです。
本当は、神は、人が自殺していいと思っていないと思います。
それなのにどうして神は待ったをかけてくれないのでしょうか。

自殺するには自我に大きな実行力が求められます。
生きることができないなどと弱音をはく自我が、どうして自殺を実行する力を持つことができるのでしょうか。

どうも神は、自我を信用しているように見えます。
自我が何を決心しても、神は、はいはいと聞いてくれるような気がします。
子に甘い親のようです。
神は、自我の決心と実行を盲目的に助けているように見えます。
決心が自殺のような恐ろしいことであっても神は力を貸してしまうようです。

そんなことはないと思うでしょうが、現実はそうなっています。
神がその全知全能をもって人間の自我を管理しているというのは明らかに嘘です。

したがって次のような知識を導き出すことができます。

自我には大きな権限が与えられている。
自我の責任は重い。
どんなに苦しくても自我は、生きることを考え、生きると決心すべきである。
生きると決心すれば神は人が生きることに力を貸してくれる。
反対に死ぬと決心すれば死ぬことに力を貸してしまう。

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2005.05.27

幸福の段階

matubagiku

幸福になりたいと思う人は幸せだと思います。
幸福になる可能性があります。

幸福になると思う人はもっと幸せだと思います。
幸福になります。

幸福であると思う人は最高に幸せだと思います。
幸福です。

それにしても思考の状態で幸福の段階が決まるなんて本当に不思議なことです。

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2005.05.16

悪は私達を食って生き残りをはかっている

dorogiwa

本来欲は生きるために必要なものです。
この欲を悪と思うことは誤りです。
その欲が異常な形になったものが悪と考えられます。
欲の近傍に悪がありますから人は悪の誘惑に負けやすいのだと思います。

人類の長い経験によって善悪の知識はかなり発達してきました。
ところが悪と考えられているのに依然として多くの人がやってしまう悪が数多くあります。
多くの人がやっていても、悪は罪です。
罪には罰がつきものです。

悪は私達を誘惑し、私達を食って生き残りをはかっています。
悪の餌になるなんて馬鹿らしいことです。

幸い人には感性、知性が備わった自我があります。
人類の経験知識を学び、理性を持つことができます。
善悪について学ぶことができます。

善をやり、悪はやらないと決心した方が人生は自由で明るく楽しいものです。
清濁併せ呑むことが太っ腹などと思っていると、やがて体中臭くなって鼻つまみになります。

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2005.05.10

柿の若葉

kaki

この季節、若葉の中で柿の若葉は特別です。
黄緑ですが、黄色が強く、ひときわ目立ちます。

百花繚乱の季節ですが、百葉繁茂の季節でもあります。
この気持ちのいい季節に合わせて約1週間にわたる連休がある日本の慣習は素晴らしいと思います。
仕事で毎日せわしく町の中を往来していますが、美しい自然にひととき身をゆだねることができ、生き返ったような気がします。

恐らく現代人は不必要な仕事までつくって忙しくしているような気がします。
激しく動き回ることによって仕事と報酬が比較的均等に人々に分与されているのでしょう。
しかしこの仕組みに依存し続けると、人は疲れ、エネルギー消費は減らず、環境は悪化するというよくない状態が続きます。

疲れるほどに動き回る人間に制動をかけ、人が生きやすい生き方と環境を実現するには新しい価値観が必要です。
この連休で疲れを癒しただけでなく、新しい価値観を見出すことができた人は本当に幸せだと思います。

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2005.05.05

自然治癒力

tapian
タピアン

ちょっと疲れていたのでしょうか、5月3日に体調を崩し、折角の3連休を寝たり起きたりの状態で過ごしました。
免疫が低下してインフルエンザが発病してしまったようです。
その上、食事の準備が嫌で4日有り合わせの甘いお菓子を食べたところ強烈な胃酸過多に襲われ、胃に穴があくのではないかと心配しました。

3日は外国の人と会い、4日は次女と東京の美術館に行く予定でしたが、どちらも取り消し、自宅で静かにしていました。
今朝は一段と苦しくなり、とうとうお昼は食事も食べることができませんでした。
ひたすら寝ていたところ晩になってやっと体が楽になってきてほっとしました。

医療依存症になると病気にかかりやすくなるというお話しがあります。
そこでできるだけ医薬や病院は利用しないことにしています。
それでは健康かというと全く逆で小さいときから病気ばかりしてきました。
それだけに何とか自然治癒力を大きくしたいと思ってきました。

自然治癒しないと判断すると病院に行くことにしています。
そのときは重体ですから病院に行くと決まって入院する羽目になります。
しかし普段自然治癒を重視していますと退院が普通より早くなるような気がします。
自然治癒力と医療効果が相乗的に作用するからではないでしょうか。

自然治癒力を高める方法として食事と運動と睡眠が重要です。
しかしこれだけでは病弱な私は医療依存心を捨てることができません。
そこで「人の命」を信じています。
特に数十億年(?)の歴史を持っていると考えられる精神的「人の命」(精神本体)については信仰のように信じています。
(注)精神は精神本体と自我からなると思っています。

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2004.12.19

丹沢山系

s-tanzawako

丹沢山系は、渓谷が深く山を刻んでおり、沢あり、滝ありで、沢登りで有名です。
断層が多いようで、崖崩れや地すべりを起こしやすい山です。
関東大震災では山肌がひどく荒れたそうです。
写真は丹沢湖の秋です。
このダム湖に流れ込む川の中に丹沢山を源流とする玄倉川があります。
昔中洲でキャンプを楽しんでいた子供を含むグループが急な増水に流され、多くの人が死んでしまったことがあります。
社会は、このグループの大人達を無謀と厳しく非難しました。
それはその通りです。
しかし流される直前に大人達がとった行動は感動的でした。
屈強な男性が一番前に立ち、人々は一列になって次第に水位があがる急流に必死に耐えていました。
やがて耐え切れなくなり、列が崩れたとき、大人は子供を岸に投げました。
そして助かった子供がいました。
人の命(Human Life)は、最後の最後までこの人達を助けようとフル稼働していました。
今でもこのお話しを思い出すと涙がこぼれます。
その後、川沿いの玄倉林道は一般の車は進入禁止になっています。

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