今朝は同時に存在する複数の自我ではなく、時間軸上に存在する複数の自我について書いてみたいと思います。
なおここでいう自我とは私が感じる自我のことです。
私の自我のことです。
生まれたときの自我については記憶ゼロです。
3才の頃の自我についてもほとんど知りません。
ただし3才のときの記憶と思われれる映像が二つ三つあります。
反復思い出すことによって忘れなかったのだろうと思います。
これらの映像は私が見た、つまり自我が見たものです。
6才ぐらいの自我についてはかなり記憶が残っています。
それ以降のことはよく覚えていて自我がどのような状態であったか説明できます。
幼児期のことは推定にすぎませんが、20代前半まで自我は、学び、考え、行ないながら連続的に成長してきました。
そこでこの自我を第一自我と呼んでいます。
この自我で生きる限界に達し、苦悩し、20代前半で、それまで大切にしてきた自我が一気に崩壊し、新しい自我になったと感じました。
それまでの自分の考えを捨て、キリスト教を信じました。
そして再び学び、考え、行いながら連続的に成長してきました。
これを第二自我と呼んでいます。
50代半ば、キリスト教で生きる限界に達してしまいました。
キリスト教で現実を説明することができず、暗闇に入ってしまい、そしてある日明るさを見、それは「人の命」(Human Life)であるとの確信に達しました。
ここで私がいう「人の命」とは、数千万年、数億年、もしかすると数十億年の時間をかけて、人がウイルスのような状態から発達してきた人の精神本体のことです。
原始的精神、原精神、基本的精神と言ってもいいと思います。
私はこの精神本体上に数百万年かけて自我(ここでいう自我は後天的に形成される自我ではなく機能としての自我です)が発達してきたと考えています。
この確信に達すると約30年も信じてきたキリスト教が一気に崩れてしまいました。
今は「人の命」を重視しています。
そして人生とはこの「人の命」と自我の二人三脚と思っています。
明るく生きることができるだけでなく、現実を説明しやすくなりました。
これを第三自我と呼んでいます。
この第三自我が崩れる時がくるかどうか今はわかりません。
第四自我があるかどうかわかりません。
今は第三自我が再び学び、考え、行ないながら連続的に成長していると思っています。
以上は私の認識ですが、ほかの方々はどうでしょうか。
経験は様々でしょうが、古い自我が崩れ、新しい自我になるという経過を経て自我が変化しているのではないでしょうか。
子供の時から宗教を学んだ人は宗教を信じている状態が第一自我かもしれません。
私のように無宗教時代があって、その後宗教信者になった人は第二自我にあるかもしれません。
その後宗教が変わった人は第三自我にあるかもしれません。
いずれにせよ、自我は生まれてから死ぬまで連続的に変化するのではなく、いつかどこかで方向が180度変わるように変化するような気がします。
このような変化はキリスト教でいう回心という言葉で説明すると一番わかりやすいと思います。