2010.08.15

1945年8月15日

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今日は65年前、昭和天皇が戦争終結の詔書を放送した日です。
私は当時5歳でした。
父はラジオを手に入れようと努力したようですが手に入りませんでした。
父から日本は戦争に負けたと聞きました。

私の町は半分が廃墟になりました。
父の家は町の住宅密集地ではなく、町のはずれの台地の上にあったので幸運にも攻撃を受けず残りました。

家は残りましたが、父が勤めていた会社が倒産し、父が失職したので私の家族は食料不足に苦しみました。
父は畑を借りたり、開墾したりして農業をやりましたが、私は栄養失調で病気ばかりしていました。
小学校はよく休みました。
天井ばかり見ている生活から開放され久しぶりに外出できると外の広さ明るさが別世界のように感じられ新鮮でした。

父は魚とりが上手で、兄と私を連れてよく川に行きました。
やがて兄と私は二人だけで魚とりによく出かけました。
それでも蛋白質が不足で、鶏を飼って卵をとったり、料亭に魚のあらをもらいに行きました。
あらとは刺身用に三枚におろした骨や頭のことで、骨の間の肉が貴重でした。
私は毎日料亭に行き、あらをもらって帰りました。

やがて父は役所に就職でき、地方公務員になることができました。
中学ぐらいから病気で学校を休むことはなくなりました。
栄養をとることができるようになったのだと思います。

子供の頃は戦争について考えませんでしたが、高校生ぐらいから深刻に戦争について考えるようになりました。
反戦論者となり、戦争しない方法を考えるようになりました。
技術者となって技術開発分野で生きました。
技術といっても戦争のための技術は反対です。
人が生きるための技術、人を生かすための技術を重視しました。

アメリカなど戦争している国を見ますと、戦争より生産の方がはるかに大事なのにどうして武器を手に取るのかと悲しく思います。

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2010.08.07

プライドより人の命

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プライドを傷つけられたと怒り、相手に暴力を振るうことは当然という考えがあります。
傷つけられても暴力でやり返さないことはプライドがないという考えすらあります。
このような社会では暴力を禁止する法律は作動しません。

どうすれば法律が作動するようにすることができるでしょうか。

時間はかかりますが、世界の文化交流が重要です。
プライドより人の命の方が大切という知識を世界に広めなければなりません。

暴力を肯定する価値観の背景に主義、宗教、道徳がある場合は厄介です。
主義、宗教、道徳は反人間的な人をつくる場合があります。
したがって政府はある主義、宗教、道徳に片寄らない政治を行わなければなりません。

日本の退廃を心配して教育に宗教、道徳をもっと取り入れろと主張する人が多いのですが、問題はそんなに簡単ではありません。
神道も仏教も儒教もいい面、悪い面を持っています。
人の命を重視する政治を重視せよと言った方が安全ではないでしょうか。

現在政府は朝鮮(北)に経済制裁を加えています。
ほとんどの日本人が経済制裁を当然と考えています。
日本人のプライドを感じます。
日本人はこの経済制裁が朝鮮の人々の命を危険にしていることに気付きません。
やがて朝鮮の人々の反感が日本人の命を危険にする形ではね返ってくることに気付いていません。
人の命の重要性に関する日本人の知識がまだまだ乏しいからだと思います。

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2010.07.20

宗教、哲学、そして現代は科学時代

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真理の追究では、宗教、哲学、科学が大きな役割を果たしてきました。
宗教は科学知識が乏しい大昔、学問の頂上にありました。
感性が重視されました。

次第に知性が発達すると人はよく考えるようになりました。
感性知性を使った思考が重視されました。
説明できる、矛盾がない、などが重視されました。
直感や第六感のような感性についても普遍性が認められるものについては真実とみなして思考を展開しました。
こうして哲学が発達しました。

さらに知性が発達すると人は感性だけではわからないものを観察し、実験し、証明することを覚えました。
思考法、観察手段、実験手段が発達しました。
科学は哲学が高度に発達した段階のような性格を持っていましたので現代では哲学は影が薄くなりました。
科学者は宗教や哲学を科学的に考察していわゆる迷信を打破してきました。
科学は技術を生む基礎となり、技術は生活、仕事、事業を大きく改善しました。

従来の科学はものの解明に注力していたので、精神に関しては研究が遅れていました。
しかし近代は精神に関する研究が非常に進み、科学は宗教を飲み込みつつあります。
人々は季節になると慣習で神社仏閣に行きますが、体や心を病むと病院に行きます。
神社仏閣に行く人はどんどん減っています。

私は、気が遠くなるような長い年月をかけて発達してきた人の精神本体、自我とは異なる原精神を「人の命」と呼んで信じています。
「人の命」は生きている人すべてに作動して人を生かしています。
「人の命」は自我を助けています。
人が何かすると思うと、「人の命」は人に何かする実行力を与えてくれます。
困ったことに悪いことをすると思っても「人の命」は実行力を与えるので要注意です。
常日頃よいことをすると思っていることが重要です。

なお、既存宗教も実行力を与えてくれます。
信仰の力です。
何を信じても人は信仰によって実行力を持つことができます。
世の中、無数の宗教が存在する理由がここにあります。
実は神仏より信仰が重要ですが、信者は自分が信じる神仏を重視します。
そして神仏の違いで信者は争います。
これは宗教の限界です。

宗教は非常に長い歴史を持っており、無数の知恵を蓄積しています。
怪しげな神仏観、世界観を除けば信仰と知恵は有用です。

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2010.04.22

真の宗教は人の命を重視する

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キリスト教系の人々はイスラム教文化を馬鹿にしていないでしょうか。
キリスト教の始祖イエスが行ったようにイスラム教の始祖ムハンマドも当時の非人間的な社会において社会を大きく改善した人であることを理解していないのではないでしょうか。
現代キリスト教は宗教水準としては現代イスラム教と同じ程度ということを理解していないのではないでしょうか。

テロを否定し、戦争を肯定していることは大いなるキリスト教系の人々の矛盾です。
人の命の重要性がわからないようではその人にとって現代キリスト教の宗教水準は50%以下です。

キリスト教系の人々は自分が神の前では不完全であることを認識し、思い上がることをやめ、馬鹿にするなら自分の無知を馬鹿にすべきです。
キリスト教文化とイスラム教文化の衝突は、その後に大いなる文化の誕生をもたらすかもしれませんが、衝突の間に早死にしたり苦しんだりする人が大勢出ることはあまりにも悲しいことです。

キリスト教もイスラム教も宗教として完成度が低いと考えると、現代のキリスト教文化とイスラム教文化の衝突の現実がよくわかります。
あの程度ですから衝突を起こして殺し合っているのです。

間違いなく真の宗教はキリスト教やイスラム教を越えるものだと思います。
その宗教はテロも戦争も否定すると思います。
死刑も否定すると思います。

真の宗教は人の命を重視すると思います。
人の命とは生きている人に実現している命です。
生物学的命ではなく、自然、他人、自分を調和させて人を生かしている精神的命です。
人の命は人生の目的は自分が生きること、人を生かすことと教えていると思います。

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2010.04.03

ローマ・カトリックはキリスト教には見えない

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ローマ・カトリックの聖職者の子供に対する性犯罪が問題になっています。
聖職者の男女関係が認められていないことが原因だそうです。
ローマ・カトリックもキリスト教の一派と言うなら、聖書のイエス・キリストの言葉に従って聖職者といえども男女関係は絶対禁止ではないとするといいと思います。

男女関係を持たないと決心し、実際持たない聖職者およびその集団はありえます。
しかし普通の宗教の一つになってしまったローマ・カトリックの聖職者のすべてが男女関係を持たないと決心していることなどそれこそ絶対にありえません。
無理して男女関係を絶対禁止にするから性犯罪が起こりやすくなり、さらに性犯罪がばれたとき組織的に隠蔽する組織犯罪になりやすいと思います。

なお、ローマ・カトリック法王のきらびやかな衣装を見ますと、もしイエス・キリストが法王を見たら「ローマ・カトリックに注意せよ、あの衣装の下に、神、神と言いながら神をないがしろにする悪しき心が隠されている」と言って厳しくローマ・カトリックを批判するでしょう。

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2009.12.31

慣習は社会の知恵

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しかし慣習は時代遅れになると無益さらには有害になる場合があります。

私は戦後教育を受けて育ったおかげか(せいか)戦前の多くの慣習に古臭さを感じました。
そこで意図的に変と思った慣習を捨てて生きてきました。
それで人間関係が悪くなったかというとそのようなことはありませんでした。
同じ戦後教育を受けて育った人々は私の言動にそれほど違和感を感じなかったようです。
私より年輩の方で私を見て怒った人もいたと思いますが、慣習無視については戦後は怒ると怒る方が悪いという雰囲気があったため怒れなかったでしょう。

たとえば私は仏教の慣習をほとんど捨てました。
お寺やお墓にお参りに行く、お布施をする、仏像を拝む、お墓をつくる、仏壇、仏具を買う、和尚さんを家に呼ぶなどの慣習を捨てました。

親戚、友人、知人のお葬式で和尚さんのお話しを聞く機会が多くありましたが、読経は意味不明でしたし、死後の世界に関する和尚さんの説話は虚偽だと思いました。
和尚さんは金銭欲が強いと思うことが度々でした。
そのため和尚さんから仏教を学びたいと思いませんでした。
仏教は経典の日本語訳を読んで勉強しました。

思い出のある亡き人については私は記憶している亡き人に話しかけます。
お墓や位牌には話しかけません。

私が死ぬと肉体はもちろんのこと、原精神(私は「人の命」と呼んでいます)も自我も消えると思います。
「人の命」や自我は生きている人に実現します。
私については、思い出のある人が記憶しているか、私のことを書いた資料が残るのみです。
人が亡くなり、資料が無くなれば私の痕跡は消えます。

人は死ぬまで生き生きと生きることが大事と思います。
死ぬまで自我は「人の命」と一緒ですから自我は何も淋しいことはありません。
死ねば自我は消えますから、「人の命」が消えても何の問題もありません。

「人の命」は生きている人すべてに働いており、その人を生かしています。
子孫であろうと他人であろうと生きている人には私に働いている「人の命」と同じ「人の命」が働いています。

生きている人にとって一番大事なことは生きていることであり、「人の命」であると思います。
だから人は人を生かすことを考えるべきです。
戦争、死刑、人殺し、自殺などは、生の否定であり、「人の命」の軽視であり、罪です。

私は来年70歳になります。
これまで「人の命」を信じて生きてきましたが、今後も生き生きと生きることができるでしょうか、人生まさに実験です。

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2009.12.10

宗教人の理想の生き方

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ヨーロッパではイスラム教系の人が増えているためキリスト教系との争いが目立ってきました。
ヨーロッパ人の宗教の自由は頭で考えたことであって体が受け入れたことではありません。

文化の相違、価値観の相違は争いの原因になります。
イスラム教系の人がヨーロッパに分散して静かに生活している間はまだいいのですが、モスクをつくり、そこに集まり、宗教的行事を行い、モスクを中心にイスラム教の言動が町で目立つようになるとキリスト教系の人の反感が高まります。

心ではどのような宗教を信じてもいいと思いますが、その宗教を形にして周りの人々に見せつけるようになると異なる宗教人の反感を買うのは自然と思います。
したがって今ヨーロッパで起こっている宗教争いは一概にキリスト教系の人が悪いとは言えません。

ここでお互い意地になって宗教争いを大きくするか、それともキリスト教、イスラム教関係なく、他人の反感の原因になる形を規制して争いを小さくするかは、人々の智恵の出しどころと思います。

私は、既存宗教にそれほど抵抗はありませんが、日本で、イスラム教系の人がことさら法律を無視してイスラム教の慣習を優先する社会的言動をとるとか、モスクから大きな声でコーランを歌うように読み上げる声が町に長時間響くとか、目まで網で隠すとか目だけ出して顔を布で隠す衣装を女性がつけて町を歩くことなどには抵抗を感じます。

イスラム教に限らず、仏教でもキリスト教でもその他の宗教でも、人々の反感を買うような言動は遠慮する智恵が必要と思います。

その人の宗教が何かわからないが、その人を見ていると人の命を重視した好感のもてる生き方だと思えるのが宗教人の理想の生き方と思います。

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2009.11.10

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神とその言葉

091110

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は同じとされています。
大昔は自然神を神としていたことが多かったのですが、これらの宗教では自然をも管理する唯一神、絶対神、人格神が神とされています。
かつて自然神であった太陽、月、星のそのまた奥、つまり天に目に見えない真の神が存在すると信じられています。

神の言葉は預言者が聞き人々に語りました。
ユダヤ教では多くの預言者がいましたが、モーセが最も有名な預言者でした。
キリスト教では教祖イエス・キリストが、人ではなく神の子とされていますが、預言者でした。
イスラム教では教祖ムハンマドが預言者でした。

預言者は特別な感性で神の言葉を聞き、人々に神の言葉を語りましたが、神そのものが何であるかは語りませんでした。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神が何であるかは預言者のお話しを聞いているかぎり信者も普通の人も永遠にわからないと思います。
預言者もわからなかったからです。

同じ神から同じ言葉を複数の預言者が同時に聞いたことは一度もなかったのでどうしても神の言葉は預言者によって違いました。
宗教間で宗教争いが存在する原因はここにあります。

神が同じなのに、預言者によって神の言葉が異なることから判断すると、論理的には神の言葉は人の言葉であると言えます。
したがって神の言葉も一思想と考えていいと思います。
神の言葉は預言者や信者にとっては絶対ですが、普通の人にとっては絶対ではありません。
普通の人は神の言葉も自分の信念で評価していいと思います。

私は人の命を重視していますのでこれらの宗教の教えも人の命を重視しているかどうかで評価しています。
神のためと言えば戦争が正当化されるという考えは間違っています。

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2009.07.29

貧乏人の肯定が貧乏人を増やしている

貧乏人の存在を肯定することを心が広いと思っている人がいます。
偽善だと思います。
貧乏人の存在を否定し、貧乏人については普通にすることの方が心が広いと思います。

私は非常に貧乏な家庭に育ちました。
子供の頃は乞食のようなことをして命をつなぎました。

親は、自分達に学問がなかったから生活が苦しいと言って学問の大切さを私に言い続けました。
私は何となくそう思ったし、読むものと言えば学校の教科書しかなかったので教科書はもらうとすぐ読んでしまいました。
読み慣れると、親戚の家に行っても本か雑誌があると、すぐ読んでしまいました。
親戚の人は、読書が好きか、持って行けと言うので、喜んで本や雑誌をもらって帰りました。

栄養失調が原因の病気に苦しみながら、やがてある会社に入り、東京勤務となり、会社の寮で生活しました。
その朝と夕の食事の多さに仰天しました。
最初は食べすぎではないかと思いました。
やがてそれが普通とわかりました。

私は急速に健康を取り戻し、その後蓄積した疲労が原因で倒れて入院することはありましたが、概して元気に働き続け、昇進昇級も普通で、貧乏からの脱出に成功しました。

貧乏人であったら、貧乏人であってはいけないと思い普通になる工夫と努力をすることが大切と思います。

政治や経営については、貧乏人を減らすような政治や経営を求めていいと思います。
このような思考は、貧乏人の存在の否定から始まります。

今の日本、貧乏人の存在を肯定することを心が広いと思っている偽善者が多いから、貧乏人が増え続けているのだと思います。

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2009.06.19

救われたという思いだけでは人は生きない

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現在宗教団体で戸別訪問に熱心なのはものみの塔だけでしょう。
ものみの塔の信者が二人連れでよく訪問してきます。
しかし彼らの神観、人間観、世界観等は、独特で真実とは思えません。

彼らの主張はアメリカのWatch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania(WTBTSP)に依拠しています。
この協会の小冊子の日本語版を読んでその内容を信じています。

小冊子はそれほど高いものではないと思いますが、信者は何部も買って未信者にあげていると思いますから毎月かなり出費しているのではないでしょうか。
塵も積もれば山となります。
アメリカのWTBTSPにあつまるお金はすごいのではないでしょうか。

訪問してくる信者の主張を聞きますと、彼らが、救われたと思っていることは確かです。
しかし、その知識から判断すると騙されていると感じます。
したがってものみの塔は霊感商法の範疇に入るかもしれません。

考えてみると、宗教団体はすべて、霊感商法をやっていると言えます。
団体に所属しない人から見れば価値のないものに信者はお金を使います。

信じて救われたという思いで思考を止めるのではなく、さらに学び、感性、知性を使って自分で真実を追求するといいと思います。
真実と思っても、変と思ったらまた新たに真実を追究するといいと思います。
団体と考えが異なることを恐れると、救われたと思っていても人は生きているのに死んでいる状態になります。

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